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目次(下のテーマをクリックするとその文章の先頭に飛びます。)

「御柱祭」に見る古代技術プリクリップ(初級者専用)再製作記プリクリップ(初級者専用)の方法無段変速トランスミッション進化史針葉樹の雑学高山市と信州高山村のホスピタリティースイスの旅 A to Z火の見櫓の研究いろは山カルタ個人メドレー式随筆スイスオートルート2005スキーツァー紀行スイスアルプス展望紀行御神様飯田線沿線案内(豊橋〜飯田)我々田引水考(依田川の水を塩田平へ)大屋刎橋(はねばし)の研究「第17回乗鞍」雑感ベニテングダケに酔う山の会ホームページ雑感中田切川本谷の感想沖縄修学旅行キャンセル相次ぐ海豚と醤油の町銚子にて東太郎山稲包山四阿山飯綱山嵩山破風岳五郎山ロンドン博物館三昧の旅奥日光散歩方言についてのいくつかの考察母と行く沖縄の旅サイクリング&クライミング「蓼科山」隣町の博物館のことマウンテンサイクリング乗鞍1筑紫次郎と邪馬台国外出張裏報告フランクフルト編サイクリング報告乗鞍から「田毎の月」まで薩摩半島小さな旅特攻兵器「回天」の基地跡を訪ねて遠山郷を訪ねてMTBと万葉集「阿蘇に少し遊ぶ」の記ミュンヘン、パリ旅行記久々の禁煙

「御柱祭」に見る古代技術
2016.05.25
島田賢治

縄文時代から続く巨木信仰の名残が諏訪大社御柱祭である。それは数え七年に一度、巨木を伐り、山から運び出し、境内の四隅に建てるもので諏訪湖を囲む地域が全力を挙げて催す奇祭である。桓武天皇(781-806)の時代の記録にあるというから「古代の技術」として考察(妄想)してみよう。言うまでもなく僕はその工事を任された現場監督になり切ってしまう。ただし担当現場は東御市にある小宮の美都穂神社である。

最初に行うのは太い樹木を伐り倒すことだが、これは案外簡単だ。樹木の一番太いところを切ろうとするから難しいので、根元を掘ればそれほど太くない根が見えるはずだ。根は軟らかいので石斧でも断ち切れるが、掘った穴に木炭を積み上げて火を点け、切断位置に土器製の筒を当てて空気を流せば根を切ることができる。深い穴を掘るには、穴が広がらないよう粘土でマスキングして、細い土管とフイゴで空気を送れば可能だ。



孔の開け方は諏訪大社の上社と下社でも異なるし、観察ポイントの一つだ。叩いて細かくほぐした枝が見えるが、謎だ。ほぐした部分を御柱に巻き付け、棒の部分を持って引いたのだろうか?

美都穂神社は古代技術を良く伝えていて根っこ付きで曳行するから木落しや土手越えで地面に突き刺さってしまい難渋すること度々。「写真ばかり撮ってないで手伝えや」と声が掛かり、やってみて分かったことだが綱で曳行するときは直線的に引くしかない。そのため畑でも雪原でも入っていけるようゴム長靴を履いていた。

梃子棒はカーブを通過するときの方向変換にしか使っていないが、当時は御柱の両脇に細い丸太を置き(支点にする)、両側から梃子棒を差し込んで持ち上げつつ水平にこじって移動(運搬)したと考える。地面から浮かせるので摩擦抵抗がはるかに少ない。
早速計算してみよう。御柱の重量が3t、長さ14m、直径は52cm(未乾燥材で算出)材は赤松で少し曲がっているとして、若手の氏子が1m間隔に並ぶと合計30人で、梃子の比率が1:5とすれば20kgの力で押し下げつつ横にこじれば1回の動作で5cm移動する。1分間5回のペースで、1時間で15m、休憩あり・交代なしで1日100m以上進みそうだ。

人口(労働力)が少ない時代だからこそ能率は重要だ。なお、「オイテー・コショ・ヨイサッ」という掛け声は「おーい梃子衆・よいしょ」が語源で、最初の「オイテー・コショ」で梃子棒を差し替え、「ヨイサッ」の掛け声で一気に持ち上げてこじる(はずだ)。タイミングが合わないと全く動かないから練習が必要だ。


【上社の8本の御柱はこの宮川を渡る。赤い旗が見えるので「止まれ」の合図。川が一部深く掘ってあり、雪解け水で冷たい。メドデコから振り落とされ溺れかかった氏子が消防レスキューに救助される場面があった。後ろは中央自動車道】


梃子棒は樫が良く、手元は削って細く軽くしておく。先端部の断面は楕円形が良い。丸いと回転力が手元に帰ってきてしまうからだ。折れたりするので予備品が必要。ルート上に沢があれば橋を架け、斜面を横切る所は足場を組んでおくのは当然の段取りだ。大木を丸ごと搬出するというのは技術的に極めて高度なものだ。

美都穂神社の御柱には諏訪の上社のような「メドデコ」がない。「目処梃子」は御柱の前後に取り付けたV字状の柱で、今は選抜された人が乗っておんべを振る足場になっているが、そもそも梃子棒を差し込むために左右に振る、そのために枝を残しておいたのが起源だろう。運搬のために必要だった枝や穿った孔を切り捨てて姿を整えるのが「冠落とし」という儀式になった。

稲作が普及した江戸時代でも杣人(そまびと)は叩いたり、ひねることで繊維状にほぐした枝を縄代わりに使ったようだ。アケビやフジなどの蔓の代わりに伐採した樹木の枝をほぐして縄にする技術があったようだが、今は見ることができない。茅野では蔓を撚り合わせた綱を使うことが伝統となっている地区があるという話も聞いた。標高が高ければ稲作は難しい。昔ながらの蔓の綱は残してほしい古代技術の一つだ。

里曳きは女子供年寄りもお手伝いできるように長い綱で曳くことになっている。綱は御柱に近いほど太く、先の方は細く軽く作るのが良い。御柱に孔を開けて棒を通し、そこに綱を掛けるのが良さそうだ。力が集中するので綱が傷みやすいから獣皮で補強したり脂を塗って滑りを良くしておこう。氏子を怪我させないのが現場責任者の一番の仕事だ。ということで木遣りをひとつ「皆様ご無事でー、協力一致でー、お願いだあー」

追記:下社木落しの桟敷席で小耳にはさんだ話が面白かった。
戦後すぐというから昭和24年の御柱祭で、食料事情が悪い時代で腹が減って力が出ないというときに「突撃喇叭」を吹くと兵隊帰りの人たちは反射的に力が出たということが現在でも消防団がラッパを吹く起源であると。

プリクリップ(初級者専用)再製作記
2016.5.30
島田賢治

2年前に佐久アッセントクラブ主催のロッククライミング講習会に参加し、プリクリップというワザを教わった。簡単に回収できるように(上級者には不要で、初級者には大切)工夫したので紹介します。以前にも紹介していますが、今回は改良版です。

材料は、塩ビ配管継ぎ手(呼び径=内径13mmのTSチーズ。以下、継ぎ手と呼ぶ)とカラー針金(心線1.5mm、外径2.0mm)と靴ひもだ。そして竹竿または塩ビパイプと延長するための細引き。カラビナはブラックダイアモンドのフードワイヤー(BD10015)に限る。

継ぎ手を加工するために金ノコと平ヤスリ、ペンチ、電気ドリルなどが必要。適当な太さの竹を差し込んで継ぎ手ごと切ると仕事が楽。最初に「枝」を切り詰め、次に金ノコで大体の溝を切る(すり割り)。次に平ヤスリで寸法調整する。怪我しないよう左手だけでも手袋をはめた方が良い。針金を通す孔は3mm位が良く、面取りしておく(切出しナイフの先で面取りした)。

靴ひもの通し方に注意。左右(裏表)がバランスするように長い方のワイヤーに掛けてある。ループ(緑色の輪っこ)の位置は重要で中央または少し高めが良く、固定は靴ひもの結び目に共締めした。長い竹竿を差し込み、靴ひもを延長すれば高さ3m以上の支点にロープを予めクリップでき、そして簡単に回収できる。

ゲートが閉じた状態(引き始め)はゲートの中央部に力がかかり、開くと(バネがきつくなる)と作用点が先端に移動する。ゲートのワイヤーは動滑車として動作するが、そのためにも滑りの良い靴ひもが必要だ。仮に、ワイヤゲートにひもを直接結びつけてしまうと、ゲートが全開しない、キャッチ部分に細引きが食い込んで危険、強い力を掛けると竹竿がしなってしまう、という問題があって実用にならない。


【写真1 溝の加工状態を示す】


【写真2 孔位置を示す。余分な孔もある】


【写真3 カラビナをあてがってみた。カラビナが少し斜めになっていると支点に掛けやすく、ヌンチャクのスリングも干渉しない。スリングが触る部分は面取りしておく】


【写真4 完成状態(左)】


【写真5 完成状態(右)】

プリクリップ(初級者専用)の方法
2014.11.03 島田賢治

9月7日県連(佐久アッセントクラブ主管)の初級者向けロッククライミング講習会に参加した。六十の手習いというかロッククライミングは30年ぶりであった。午前中は天候が悪かったので岩根山荘の人工壁「オンサイト」で基礎的なクライミングや確保技術などを教わり、昼食後に当初予定のリバーバンクエリアで実践的なトレーニングを行った。

ここでプリクリップというワザを教わった。最初の支点にメインロープを通したクイックドローを掛けておくことによって登り始めからビレーヤーによる確保が有効になってグランドフォールを防げる、というものである。最初にクリップするまではビレーが有効ではないのでビレーヤーがスポッティング(万が一落下したときに頭部を守るために手助けする)するしかなかった。この低い位置からの落下事故は案外多いらしい。

講師が自作した道具(針金で作ったカラビナ固定仕掛けと短い塩ビ管を数本つなぐ)を持ってきて実際に見せてくれた。その他に拾った枝などを使ってプリクリップする方法(メインロープを蝶結びにしておき、片方の輪に小枝を挟んでゲートを開いたカラビナを通し、もう一歩の輪に枝先を通して絞って固定する。ただし成功率が低い)も教えてもらった。

先日、坊抱岩(冠着山)で改良版を試してみた。竹の棒の先にカラビナをビニールテープで固定し、細引きを引くとゲートが開くように細工してプリクリップし、竹棒は邪魔なので引いて抜いた。しかしオールージュ(5.10a)には歯が立たず他のパーティに頼んで回収してもらった。東京から来たというご夫婦はプリクリップの専用ツールを持っていて、昨今は安全優先ということで一般化していることが分かったが、検索してみると一昔前は臆病者の道具とされていたようで、チョンボ棒と不名誉な名前で呼ばれることもある。

竹棒の先につけてプリクリップし、岩トレが終わったら竹棒を差し込んで簡単に回収できる(初級者にはこれが大切)仕掛けを作ったので紹介したい。材料はヌンチャクと水道用塩ビ配管のTS継手(呼び径13mmのチーズ・T字形)と細い針金、ビニールテープである。ヌンチャクはブラックダイアモンドのオズというフード付きワイヤーゲートタイプを使った。

工具は歯の細かいノコギリと組みヤスリ、ペンチなど。課題は、小さな塩ビ継手をどうやって固定するかだが、適当な太さの竹を差し込んで塩ビ継手ごと固定するようにした。ノコギリで怪我するのもつまらないので左手だけでも手袋をはめた方が良いだろう。

チーズの枝をカットし、次にカラビナの幅(狭い方の幅)に合わせて縦方向にすり割りする。竹棒を差し込む方は加工しないから半分だけでよい。カラビナがシックリと収まるまでヤスリで削る。溝にはめ、ビニールテープを巻いて固定するとカラビナの背中の部分が内側に飛び出すので、差し込む竹棒の先にくぼみを作っておくと噛みあって回転止めとなり、カラビナの向きをコントロールできる。写真から分かるように竹棒に対して斜めに取り付けることがポイントで、掛け外ししやすくなる。ヌンチャクは上下が決まっているので注意のこと(スリングがゆるい方が上になるように使う)。



細引きを軽く引くだけでゲートが最大に開き、またキャッチ部分に細引きが食い込まないように試作を重ねた。写真を見てほしいが、キャッチ部分と同じ高さに細引きの片端を結びつけ、ワイヤーゲートの中をくぐらせてから、ループ(針金)を通して方向転換し真下から引けるようにした。ゲートが閉じた状態(引き始め)はゲートの上部に力がかかり、開き始めると作用点が下にスライドしてゲート全開になる。ワイヤー部分が動滑車として作用するので軽く動作するというわけだ。ループ(針金)が切れてしまっても斜めに引けばゲートを開くことができるので細い針金で十分である。細引きは靴ひもでも代用できるが、写真の細いテープスリングはカメラの吊りバンドである。丈夫で滑りやすいことが重要。

おしまい

無段変速トランスミッション進化史
2013.12.27 島田賢治

諏訪湖釜口水門近くの公園にガソリンエンジン機関車が展示されている。説明には大正13年に購入、旧釜口水門の建設工事(昭和7年から2年間)に使われていたとある。アメリカ製の機関車で、20両ものトロッコを牽引していたそうだ。



覗き込むとエンジン出力軸にフライホール(円板)があり、直交する軸に革ベルトを貼り付けた摩擦車がある。これをフライホイールに強く押し付けて、摩擦力で動力を伝達するいわゆるフリクションドライブだ。



運転手が摩擦車を左右に移動させることで、クラッチ(動力断続)、変速比連続可変(CVT)、前後進切り替えを行うことができる。フライホイールの中央は窪んでいるので接触せず(ニュートラル)、摩擦車を右の方に移動させると接触して(半クラッチ・低速後進に相当)、さらに円板の端まで移動させるとスピードが上がるというシンプルな構造だ。修理が簡単なので土木工事用機関車に向いていたのだろう。
エンジン始動は助手が前方からクランク棒を差し込んで回したから(助手席というのはその名残り)出力軸側から見れば左回りなので、写真のように右側にあれば後進で、運転席に排気ガス(煙)が入ってこないように登りは後進で運転したことを暗示している。革ベルトに松ヤニを塗ってあるはずだから摩擦熱で煙が出たと思う。

小型乗用車のトランスミッションはステップAT(オートマ)からCVTに移行した。CVTで燃費が良くなるのはエンジンの効率の良い領域(2000回転前後)を使い続けられるからだ。小型化のためにプーリー軸間寸法を切り詰め、また変速比も徐々に拡大した。その結果、プーリー・ベルト間のスリップを防ぐために高圧(5MPa!)が必要になり、油圧ポンプにパワーを喰われてしまうようになった。対策として副変速機(遊星ギア1セット)を追加した。また、当初は自動クラッチで発進する機構だったが微震動(ジャダー)が嫌われ、発進デバイスとしてトルクコンバーターを追加した。
シンプルな構造で低コストだったCVTは日本人の細かい要求に合わせているうちに見限ったはずのステップATに似てしまった。異なるのは遊星ギア列を減らしてCVTを組み込んだという部分だけで、これでは「ガラパゴスCVT
というべき進化をしてしまったのではないか? 自動車用CVTはヨーロッパで開発された技術だが欧州車には採用が少ない。(ベンツAクラス、アウディA4など一部のみ)
ヨーロッパは高級車も手動変速(MT)が多く、自動変速の場合はフォルクスワーゲングループ(アウディやポルシェを含む)がDCT、ベンツやBMWはステップATを使っている。低価格車(フィアット500とかフォルクスワーゲンUP!など)はAMT(自動化されたMT)だ。変速ショックがやや大きいが、伝達効率は最良だ。

11月23日、東京モーターショーに行った。正確に言うと、自動車雑誌主催の「最新トランスミッションの開発」というセミナー(参加費1万円、セミナー参加者は80名程)を聞きに行き、昼休みに展示会場にちょっと行ってみた。
セミナーのトップバッターはJATCO。テーマは日産パスファインダーという大型FF車向け1モーター、2クラッチ式のCVT8 Hybridの開発。最新型CVT8をベースにトルコンのスペースにモーターを入れたというCVTで、発進デバイスに乾式多板クラッチを採用したための苦労話が面白かった。しかしCVTラグ(アクセルを踏むと回転数だけが上がり、遅れて加速する。ゴムひもで引っ張られるような加速感)とか変速中の伝達効率の低さという本質的な問題については触れなかった。

次はZF社(BMW向けの変速機を作っているドイツの会社)のステップATでFF用9速変速機(9HP)の紹介。18年ぶりに横置きのATに再参入したもので従来はアイシンの6速ATを使っていたレンジローバー・イヴォークに採用された。ステップATは、効率の良いエンジン回転数を使えるように変速段数を増やしてきたが、複雑化することで伝達効率が下がるから9速が限界らしい。
ZF社の発祥はツェッペリン飛行船のプロペラ用減速機製造だという。フランス・シトロエン車のエンブレムはダブルヘリカル歯車がモチーフになっている。歯車こそ精密加工の華で工業力の基礎だ。

昼休みを挟んで、ドイツ・シェフラー(Luk)のDCT(デュアルクラッチトランスミッション)の説明。先日発売のフィットハイブリッド(i-DCDと称している)に採用されている。燃費のためにDCTを採用したとホンダのホームページにはあるが、ドラビリ(ドライバビリティ)が悪いCVTを見限ったようだ。これで日産GT-R、三菱ラン・エボに続いて3車種目になった。ホンダのステップATは遊星ギアではなくMTと同じ2軸式だから生産設備面からもDCTを採用しやすい。(デュアルクラッチ本体とギアチェンジ機構をLukから調達)
仮に時計の針が小刻みではなく、一定速度で回ったらどうか? 小気味よい変速ショックというものも運転の楽しみだからDCTはスポーツタイプに採用されることが多い。スバルのリニアトロニックCVTはスポーツモードにすると段付きの(DCTのような)変速制御になるそうだ。マツダのスカイドライブ(ステップAT)はロックアップ(直結)の割合を増やしてダイレクト感を出したのでDCTに負けていないそうだ。一昔前のマツダはCVTのように回転数だけ上がるステップATだったと覚えている。

最後は富士重工で、ハイブリッド用CVT。CVTラグに言及し、その対策にモーターで加速感を出しているという。重要なのは「加速力ではなく、加速感」というツボを押さえていると思った。アクセルを踏み増した瞬間に加速感があれば余分に踏まないので燃費にも良いはずだが、そのために100kg(インプレッサXVハイブリッド)の電池が必要だという。重量が増えて加速が悪くなるのでさらにモーターの出力を上げると電池容量も必要になるという悪循環が待っている。

それを乗り越えたトヨタの技術力(基本特許はアイシン精機が持っている)には感服するが、電池交換費用を惜しみ7年で廃車にしてしまう車も多いと聞く。渋滞が激しい道路はともかく、普通に走れればプリウスの優位性はわずかしかない。ニッケルや銅などの金属資源を多用して石油資源の節約をしていると言える。
ではアイドリングストップ/スタートはどうか? バッテリーも耐久性の高い高い高級品だし、CVT油圧を保持する機構が必要で想像以上にコストがかかるようだ。最近のエンジンは暖機に時間がかかるので10km以下通勤だと動作しない。カタログ燃費(暖機してから測定する)が良くなるだけだが数値が低いと売れないのが現実でガラパゴス的進化の最大要因だ。暖機を短時間で終わらせるために排気管から熱を回収している車種もあるが、マフラーに水が溜まって腐食するので近距離通勤では要注意だ。

セミナーの最後にあったフリートークで、最近のMTはエンジンとの協調制御が進んでいてクラッチ操作が下手でもエンストせず、坂道の発進でもバックしないようブレーキが制御されているとの話があった。「皆さんに質問します。MTが好きな人は手を挙げて下さい」と司会者が問うと。「ハーイ」と手を挙げる人多数。東京の渋滞は、前の車に追従して発進・停止する「自動」車がほしくなるほどだという。

エンジン技術者畑村氏は近著でCVT+ターボの日産JUKEを「アクセルを踏んでから加速が始まるまでに時間がかかりすぎる。CVTによる加速遅れにターボラグが重なっていて酷い」と評している。先生はVWかぶれなので小型のターボとDCTの組み合わせを推奨しているが、日産はJATCOの大株主だからDCTを採用することはない。

昼休みの時間にモーターショー会場に行ってみるとボッシュ・マーレ社が最新技術のツインスクロールターボ(3Dプリンターで作った模型)を展示していた。見ると、ケーシングの向きと羽根の向きが合っていないではないか。「逆ですよね」と指摘すると「確かに、これでは回りませんね」という答えだった。しかし最新のターボには驚くばかりである。タービンの羽根はさらに薄く、衝動ではなく反動で回すタイプになっている。右側に近接センサーらしきものがあるが最高回転数の制御に使っているのか? 遠心力による羽根の変形量が明確になればケーシングとの隙間寸法もギリギリに設定でき、さらに効率アップできるはずだ。



おしまい

針葉樹の雑学
2012.12.07島田賢治(記)

1.築城と水害
 現在、我々が見ることができる城は戦国時代末期から江戸時代初期にかけて築かれたものが多いという。地形を利用して守りを固める山城形式は収容兵員が少なく長期戦にも弱い。さらに鉄砲狭間を狙い撃ちして反撃を封じている間に工兵が柵を破壊してしまうという戦法に対して無力であった。防御方法として最も有効なのは火縄銃の射程(約60m)以上の堀をめぐらすことであり、大規模な平城または平山城に移行する。城郭、武家屋敷の建設と城下町の発展により木材の需要が高まることになった。

 家康は関ヶ原の合戦(1600年)に勝利すると豊臣との最終決戦に備えて大坂城を包囲するように二条城、彦根城、伏見城、丹波亀山城を築かせた。これによって西日本の森林資源は枯渇してしまう。その後も江戸城の大改修(1603-1613年)、名古屋城の造営(1610-1615年)、大坂城の大改修(1620-1629年)と続き、秀吉から奪い取った木曽(現在の中津川市あたりから塩尻市奈良井宿の先までをいう)から伐り出したので、搬出しやすいところは尽き山となった。
 
 江戸城の建築工事が一段落した頃に木曽は幕府直轄領から尾張藩領(家康の九男義直)にかわった。江戸の「明暦の大火」(1657年;振袖火事)の復興事業によって木材の需要が再び高まり、全国から木材が集められた。江戸は火事が多く、その後も「天和の大火」(1682年;八百屋お七の火事)などがある。幕府は1666年に「諸国山川掟」を示し、伐採の制限・禁止だけでなく、草木の根の掘り取りまで禁じている。当時夜なべ仕事の照明用として松の根を叩いてほぐしたものを燃やしていた。松の根を掘り取ったところから流出した土砂が下流域で沈殿し、洪水が多発する一因となっていたのだ。

 明治になって通常の水面よりわずかに高い突堤(ケレップ水制といい、現在も木曽川下流に残っている)を築いて流路を狭めることで沈殿を防ぐという河川改修を指導したのはオランダ人技師デ・レーケだった。しかし彼が最初に行ったのは上流の裸地の緑化である。荒縄の網をかぶせて土壌の流出を防ぎ、安定したところに赤松を植えたという。明治時代の風景写真で白っぽい山肌が目立つのは珍しいことではない。
 
 尾張藩は立ち入り禁止区域の設定(1665年)、木曽全域で藩ご用材以外の木曽四木の伐採禁止(1708年に鼠子・ネズコを追加)という政策によって森林資源の回復を図った。この政策は「木一本首ひとつ」という厳しさで知られるが、伐採禁止となっている樹木には触れることも禁じたという。檜の皮には様々な用途があるので樹皮だけを盗みとる者がいたが、盗伐より取り締まりが難しかったようだ。

2.伐採と筏師
江戸時代の木曽では三つ紐伐りという伐採方法に限られた。今日では伊勢神宮の御神木を伐る時にだけ使う方法である。細長い斧を使い、周囲3か所だけ残して中心まで彫ってゆき、最後に1か所を切り離して倒す。 伐採後は枝を払い、皮を剥がす。傷むのを見越して定尺の2間(3.6m)より1尺3分(40cm)の余長をもたせて切り、角を斜めに削った。木材を谷まで下ろすことを山落しといい、木馬(きうま)という橇にのせて曳いた。続いて修羅(すら)という長大な滑り台や鉄砲出しによって木曽川本流まで出すのを小谷狩りと呼んだ。鉄砲出しとは堰堤を作って沢を堰き止め、水が溜まったら堰堤を破壊してダム湖に浮かべた木材を鉄砲水で木曽川本流まで押し出すものだ。

 木曽川本流を流すのは大川狩りといい、1本ずつ流す管流しと簡単な筏で流す場合があった。岐阜県八百津町錦織に網場(あば)があり、流れてきた木材を引き揚げた。余長部分に目牙(めが)と呼ばれる孔をあけ、藤やアケビなどの蔓を通して筏に組み、さらに連結した。我々が知っている筏とは全く違う構造で、失われた技術のひとつである。伐採・搬出技術の先進地は紀伊山地であり、木曽にはここから伝えられたようだ。

 木曽節に歌われる「中乗さん」とは筏師のことだが、先頭の筏に乗る舳(へ)乗り、最後尾を操る艫(とも)乗り、中央の筏に乗るのが中乗という説と中流域を流すのが中乗さん、下流域が下乗さんという説があるが、僕は後者が正しいと思う。筏流しは大水の心配がない真冬から春先の仕事である。中乗さんも冷えた身体を熱燗で温めたくもなろう。余談だが、木曽の酒でいえば「中乗さん」より「七笑」の方が好みである。

 八百津から桑名までの中間地点に西松町という川港で栄えた町がある。東海道本線が木曽川を渡るあたりだ。同町に問い合わせてみると、円城寺という場所で筏をさらに長く組んで桑名まで流したことが分かった。当時は木曽川、長良川、揖斐川の下流域が分離していないので木曽川から桑名に行くことができた。東海道を往来する旅人は桑名と熱田神宮の間を海路に頼ったから白鳥貯木場まで曳航される筏を間近に見たに違いない。

3. 三大美林と木曽五木 
青森ヒバ、秋田杉と並んで木曽檜は天然林(自然更新)の三大美林である。ちなみに植林では天竜杉、吉野杉、尾鷲檜が三大美林となっている。木曽五木とは檜(ヒノキ)、椹(サワラ)、翌檜(アスナロ、アスヒ)、鼠子(ネズコ)、高野槇(コウヤマキ)を指し、杉と松は含まれていない。地盤が花崗岩または濃飛流紋岩で養分が少ないので杉が自生せず、松の幼木は光量不足に弱いのでヒノキ属に負けてしまう。

(1) 檜は強度、加工性、耐久性、芳香、狂いの少ないことで最高級の建築材とされるが、木曽の天然檜はさらに木目の美しさなどの点で別格とされている。

(2)椹は腐食を防ぐ成分ヒノキチオール(日本産の檜には含まれていない)が多いので腐りにくい。匂いがないので飯びつ、寿司桶や日本酒、醤油の樽に使われた。椹と檜の見分けは、葉の裏の気孔帯(ルーペがあると助かる)がY字に見えたら檜で、椹はX字または蝶形に見える。また、椹は葉先が尖っているために触ると少し痛いが「サワラないでねというわけだ。椹の樹皮は縦に細かく裂け幹に密着しているという特徴がある。

(3)翌檜の葉は檜よりはるかに大きくて、気孔帯も白く大きい。上田周辺にはないものだと思っていたが、太郎山神社の階段横にあることを最近知った。翌檜はヒノキチオールを豊富に含有しているので建築の土台や舟、水車、用水路の樋、井戸の升、橋の杭に使われてきたが今日では需要が少ない。天然檜の北限は福島県南部だから東北地方には檜はないといってもよい。アスナロには北方型があり、それがヒノキアスナロ(青森ヒバ/南部ヒバ)である。有名なところでは平泉中尊寺金堂が青森ヒバ造りで、耐久性は実証済みだと青森の森林組合のホームページにあるが材質は檜に比べてやや劣るようだ。

 江戸の木材商が檜を注文したところ今日いうところのヒノキアスナロが届いてひと悶着あった、と県立歴史館市川先生の講演で聞いた。津軽・南部藩あたりではヒノキアスナロをヒノキと呼んでいて、北海道渡島半島の「桧山地方というのもその名残りであろう。明治の中頃に長州藩出身の官僚が西日本の呼び方を基準に樹種名の統一をしたが、「ヒノキ」という地元の呼び方と交ぜざるを得なかったようだ。

(4)鼠子(ネズコ)は別名を黒檜(クロベ)といい、葉の裏の気孔帯は目立たない。寒冷・多雪に耐えるので、中央アルプスあたりでは標高2000mを越えてから現れる。尾瀬では山小屋を建てるときに使ったようだ。歩いていて鼠子の大木がなくなれば小屋まで10分もかからない。湿原の縁辺りにねじ曲がった鼠子の老木を見ることがあるが、これは余りの積雪に負けて立ち上がれなかったのであろう。鼠子や檜の樹皮は火縄に用いられ、これは火種を運ぶために使われていた。樹皮をよくほぐして縄をない、黒色火薬の原料のひとつである煙硝(硝酸カリウム)を染み込ませてつくった。同じ原理で、タバコの巻紙に硝酸ナトリウムが添加されていて、吸い続けなくても消えない仕掛けなので周囲の者は煙たくて・・・と書いてきて確認のために検索してみたら、「タバコの葉っぱと巻紙の燃える速度を同時にするために必要で、火が消えないための工夫ではありません」とJTのホームページにあった。吸い続けないと消えてしまうタバコなら税金を少し安くしてあげても良いと思う。

(5)高野槇(コウヤマキ)は腐りにくく、シロアリにも強い。徳川家康が江戸に入府して間もない1594年に隅田川に初めての橋が架けられた。その橋は、日光・仙台方面に通じる千住大橋である。下流に両国橋ができるまで単に「大橋」と呼ばれ(現在でも橋名板は「大橋」)、長さ120m、幅7mという大きさだった。始めは橋杭に檜を使ったが20年持たなかったので4回目の掛け替えの時に腐りにくい高野槇の橋杭になった。河口から離れているので海水が侵入せず舟虫(木材に穴をあける二枚貝)に食われないことも長持ちした理由のひとつである。伊達正宗が高野槇を寄進したという根強い伝説があるが、当時の仙台藩内に高野槇の大木があったのか。現在の北限は福島県である。

 一方、大坂は水の都である。張り巡らされた運河には船着き場、護岸や橋がつきものでその多額の補修費用が地元負担であったため「杭倒れ」という言葉ができる程だったという。これが「食い倒れ」に変化するが、大阪名物は小麦粉を薄く焼くか丸く焼くもので安いものばかりだ。

4. 松と煙の関係
登り窯は松薪を使う。窯焚きを見学すると焚口に薪を投入した直後に赤い炎、続いて猛烈な黒煙が噴き出した。高温に晒されて薪から樹脂(ヤニ)が噴出・蒸発し、燃料が濃すぎる領域で分解反応によって炭素微粒子(黒煙)が発生するのだ。

 ロウソクから煤が出るのも、大型トラック(旧式のディーゼルエンジン)や蒸気機関車から黒煙が出るのも同じ原理だが、薪ストーブにも当てはまる。「松は火力が強すぎてストーブが傷む」と言うが、松を燃やさない(させない)のは煤の発生量が多いために煙突が詰まったり、煤の塊(火の粉)が飛び散って火事になる心配があるからで、ストーブ自体が傷むとは思えない。燃費、近隣に対する煙害、煤など燃焼に関する悩みは自動車用ディーゼルエンジンと共通する点が多く、燃焼室形状や空気の流し方(渦流の生成)などをストーブ屋さんに助言しているかも知れない。

5.杉とブナの関係
豪雪で知られる野沢温泉村のガイドツアーで聞いたのだが、杉苗は斜めに植えなさい、雪で折れてしまうので垂直に植えてはいけないという。青森県と秋田県にまたがる白神山地は天然ブナ林で有名だが、江戸を襲った大火災「明暦の大火」の復興需要で青森ヒバや杉を大量に伐り出したという歴史がある。白神山地は造山活動が続いているために急傾斜地が多い。江戸時代は気温の低い小氷期で積雪量は現代よりはるかに多く、杉の木が少し育った頃に雪の圧力が容赦なくかかるので植林が成功せず、放置されて今日の天然ブナ林になったのだと思う。  おしまい

高山市と信州高山村のホスピタリティー

2012.06.28島田賢治

6月23日に西穂高山頂往復と独標往復の2パーティで新穂高ロープウェイを使って入山したときのことである。上田から3時間もあれば駅に着くだろうと思ったものの、始発便に乗れなければ山頂往復は難しいということで余裕をみてロープウェイ駅のしらかば平に早目に着くようにしたのが失敗であった。

何とロープウェイ駅舎にも駐車場にも早朝使えるトイレがないために1時間以上も我慢を強いられたのだ。公共交通機関の駅には24時間使えるトイレがあるはずだという「常識」は当てはまらなかった。出勤してきた従業員にダメ元で、「社員用のトイレを使わせてもらえないか」と聞いても「8時になればビジターセンターが開くから待って下さい」と言う。特にお急ぎの方はその辺の茂みにしゃがんで済ませろ、ということらしい。

ホスピタリティーの不足(欠如)は他にもある。ひとつは県道475号線からしらかば平の分岐に案内表示がないこと。ロープウェイを新穂高温泉駅から利用するように誘導しているようだ。もう一点は下山してきた登山者が通る4階の入り口に時刻表が掲示されていないこと。下山してきた登山客が一番知りたがる情報なので掲示場所・方法にもっと工夫があってよい。ついでに言うと、ロープウェイの従業員(アルバイト?)の服装もだらしなく、表情もどんよりしている。もう行くまいと思った。

上高井郡高山村に行った時のことである。御飯岳と破風岳の中間に毛無峠があり、硫黄鉱山の遺構を撮影に行ったのだが、林道を登って行くとネマガリダケ採りの季節なので入山料徴収のテントがあった。通過する車を全部呼び止めてチェックするのかと思ったら、自己申告制であり(山田牧場でワラビを採るのは無料)、お客様を疑わないという基本ができていると思った。
 

「山田温泉大湯」という風格のある公衆浴場(入浴料300円)で、ひと風呂浴びて帰ろうとすると受付の人が「向かいの建物の2階が無料休憩所になっています」と言うので行ってみた。2階の広間で少し昼寝をして身体を休めてから1階に下りて売店の土産物など見ていると、店の軒先に足湯があることに気が付いた。足湯が無料というのは普通だが、どうぞお使い下さいと乾いたタオルが用意されていることにはいたく感心した。寒い時期に足湯で温まった後にハンカチでは拭いきれないので親切なサービスである。たとえ金を使わない客であろうと利用者はお客様である。高山村にはお客様の身になってサービスする精神、つまり最高級のホスピタリティーがある。また行きたいと思った。
                                  おしまい

6月23日に西穂高山頂往復と独標往復の2パーティで新穂高ロープウェイを使って入山したときのことである。上田から3時間もあれば駅に着くだろうと思ったものの、始発便に乗れなければ山頂往復は難しいということで余裕をみてロープウェイ駅のしらかば平に早目に着くようにしたのが失敗であった。

何とロープウェイ駅舎にも駐車場にも早朝使えるトイレがないために1時間以上も我慢を強いられたのだ。公共交通機関の駅には24時間使えるトイレがあるはずだという「常識」は当てはまらなかった。出勤してきた従業員にダメ元で、「社員用のトイレを使わせてもらえないか」と聞いても「8時になればビジターセンターが開くから待って下さい」と言う。特にお急ぎの方はその辺の茂みにしゃがんで済ませろ、ということらしい。

ホスピタリティーの不足(欠如)は他にもある。ひとつは県道475号線からしらかば平の分岐に案内表示がないこと。ロープウェイを新穂高温泉駅から利用するように誘導しているようだ。もう一点は下山してきた登山者が通る4階の入り口に時刻表が掲示されていないこと。下山してきた登山客が一番知りたがる情報なので掲示場所・方法にもっと工夫があってよい。ついでに言うと、ロープウェイの従業員(アルバイト?)の服装もだらしなく、表情もどんよりしている。もう行くまいと思った。

上高井郡高山村に行った時のことである。御飯岳と破風岳の中間に毛無峠があり、硫黄鉱山の遺構を撮影に行ったのだが、林道を登って行くとネマガリダケ採りの季節なので入山料徴収のテントがあった。通過する車を全部呼び止めてチェックするのかと思ったら、自己申告制であり(山田牧場でワラビを採るのは無料)、お客様を疑わないという基本ができていると思った。
 

「山田温泉大湯」という風格のある公衆浴場(入浴料300円)で、ひと風呂浴びて帰ろうとすると受付の人が「向かいの建物の2階が無料休憩所になっています」と言うので行ってみた。2階の広間で少し昼寝をして身体を休めてから1階に下りて売店の土産物など見ていると、店の軒先に足湯があることに気が付いた。足湯が無料というのは普通だが、どうぞお使い下さいと乾いたタオルが用意されていることにはいたく感心した。寒い時期に足湯で温まった後にハンカチでは拭いきれないので親切なサービスである。たとえ金を使わない客であろうと利用者はお客様である。高山村にはお客様の身になってサービスする精神、つまり最高級のホスピタリティーがある。また行きたいと思った。
                                  おしまい

スイスの旅 A to Z

2011.12.12 島田賢治

スイスの旅 A to Z 

定年退職を半年後に控えた2011年6月末からスイスに行ってきました。今回の旅はスイス通の若尾さんが研究・計画したスイス・ツェルマットの旅に便乗・同行したものです。脈絡なく次々、色々思いついてしまうので、アルファベット順にまとめることにしました。

最初に行程をまとめておきますが、地名の羅列で恐縮です。
24日 成田からロンドンヒースロー経由でチューリッヒ空港、さらに鉄道でチューリッヒ中央駅、ここからホテルまで徒歩で行く。

25日 チューリッヒからフィスプで乗り換えてツェルマットへ。街外れのユースホステルまでキャスターの心配をしながらようやくたどり着き、大荷物を宿に置いて街まで戻る。ゴルナーグラート駅で7日間有効のピークパスを購入して早速、山頂駅3,089mまで行くがマッターホルン4,478mの頂上は雲に隠れて見えず。街まで下ってCOOPで買い物。偶然に小林吉一さんに会う。

26日 ゴンドラリフト(以下、リフトと記す)でフーリー経由シュワルツゼーまで一気に登り、ここから歩いてヘルンリ小屋の先のマッターホルン取り付き点まで行く。シュワルツゼーで昼食後リフトで街まで下る。天気は最高で雲ひとつなし。レストランでまた小林さん夫妻に会う。

27日 シュワルツゼー経由で標高3,820mのグレイシャーパラダイスまでロープウェイで行く。遠くにモンブランが見えた。シュワルツゼーまで戻り、ここからマッターホルン北壁を見ながらハイクダウン。森林限界付近の草原がとても美しい。素敵なレストランで昼飯後さらに森の中を下っていくと深いゴルジュに付けられた有料歩道(木製)があった。スリル満点。

28日 地下ケーブルでスネガへ。さらにロープウェイでロートホルン3,103mまで行き少し下った鞍部がオーバーロートホルンの登山口になる。標高3,415mの山頂まで2時間ほど。日本人6名で山頂を独占し360度の展望を楽しむ。
スネガで昼食後グリンジーゼーを経てリッフェルアルプ駅まで歩く。待っていると、団体客を引率する日本人ガイドが「あれがアイガー、ユングフラウあたりの・・」と言うのが聞こえた。明日は天気が悪いという予報なのでグリンデルワルトへの小旅行に計画変更。

29日 今日も早起きして始発の電車に乗り、フィスプ、スピーツェ、インターラーケンオストと何度も乗換えて登山鉄道の客となり、クライネシャイデックで下車。ほとんどの客はユングフラウヨッホへ行く登山鉄道に乗り換えたが、我々はグリンデルワルトへ下った。少し霧雨が降っていたがアイガー北壁とユングフラウは辛うじて見えた。岩壁が近すぎて展望を楽しみながらハイキングするには向いていない。(天候が悪かったので印象も悪い)

30日 ゴルナーグラート登山鉄道で頂上駅に行き、待っていると天候が回復してきた。リッフェルゼー駅まで下り、ここからモンテ・ローザ小屋に至る水平道をたどって氷河を見に行く。道は歩きやすいが、急斜面草地(アルプ)の下は断崖で結構緊張感がある。すれ違う人達はアルピニストで、我々のようなアルプニストとは雰囲気が違う。氷河の底を覗いたり上を歩いたりして十分に観察した。帰りは登山鉄道沿いに歩き、リッフェルリゾートに寄り、路面電車にちょっと乗ってリッフェルアルプ駅で乗り換えた。

7月1日 エーデルワイスを見るために、ロートホルン駅からスキーゲレンデを下り、十字路を左折し下っていく。ヒツジが放牧されている草原の道端にエーデルワイスが咲いていた。アルペンローゼが咲く工事用道路をスネガまで戻りここで昼食。さらに針葉樹林のなかを街までハイクダウンする途中で登山鉄道の橋梁を撮影する。

2日 始発の電車でチューリッヒへ移動。同じホテルなので今度は簡単にたどり着く。スイス国立博物館の中庭でパスタとビールの昼飯。展示物を眺めて想像するに高い印刷技術が紙幣の発行を可能にし金融・保険業が栄えたようだ。駅前からチューリッヒ湖までの繁華街を歩いてゆき、川沿いに少し戻って高台にあるチューリッヒ工科大学の前を通り、ホテルへ戻る。土産の買い物など少々。 

3日、4日 ロンドンで乗り換えたのだがセキュリティチェックの厳しいこと。予定通り帰国。


感想・考察など思い込むままに。
Agriculture(農業): スイスは豊かな土壌がなく、気温が低く夏の雨量も少ないから農業には不向きな土地柄であると見た。レストランの野菜サラダの高いことがその証拠。夏場、放牧地で搾乳された牛乳はチーズ(エメンタールが有名)に加工し、チーズフォンデュが名物料理になった。

Animal(動物): 展望レストランの前にいた大型犬は樽が付いていた(救助犬という設定で、中身は酒)。有料モデルなので勝手に撮ると飼い主に噛みつかれるのでご注意。スイス雀はレストランのテラス席の足元まできてパン屑をねだる。無警戒なのは野良猫がいないから? スイスでは一度も猫を見なかった。牧草の貯蔵小屋の塚にはネズミ返しの仕掛けがあるが、あれはマーモットから干し草を守るためかも知れない。マーモットの巣穴は結構よく見たし、ゴンドラから走る姿を見た。

Beer(ビール): 旅に必要なものである。我々は特急列車に乗ればすぐにプシュッと缶ビールを開けるし、昼飯には展望レストランでジョッキ1杯もしくは小ビン2本、下山後にも大聖堂前の公園でロング缶2本を飲んだ。日本のビールより重くて飲み応えあり。物価の高いスイスでは安く感じた。

Cowbell(カウベル): カボチャほどのベルが牛の首にかけてある。牛は休みなく食い続けるからガランガランと鳴り続け、ときどきモーッと鳴く。放牧地のコースを歩くときは牛糞に注意しなければならない。しかし蝿はいないのか覚えていない。

Construction&Structure(工事現場と構造): ツェルマットで木造建築現場を見た。日本は最初に屋根を葺くが、クレーン作業に邪魔なのでこちらでは後回し。個人住宅程度の現場でもタワークレーンが一般的でクレーン車は使わない。大工さんの服装は半ズボンが多い。空港ビルディングの観察である。チューリッヒ空港は鋼管を主体とし、仕口にデザイン性があった。ロンドンの空港はH型鋼を柱材に使っているが、その厚みがすごい。世界で初めて鉄鋼の大量生産に成功した歴史を旅行者に誇示している、ようだ。

Dormitory(安宿): マッターホルン・ホステルという宿に7泊した。1泊3,000円ちょっとで格安。6人部屋で、2段ベッド3台と大き目のロッカーが人数分あった。カナダ、タイ、ニュージーランド、韓国、ブラジルと次々と入れ替わる。男女半々くらい。朝食は宿に頼むと時間が遅いうえにパンとコーヒーしか出ないので全て自炊(お湯を沸かすだけ)にした。固いキャベツ千切りに持参したマヨネーズと醤油を少々。(スイスにはマヨネーズはない)殻が緑や黄色に着色されている茹で玉子(ハイキングエッグ)、太いソーセージ1本、ヨーグルト、コーヒーが定番でパンなどの澱粉質なし。

Electric Car(電気自動車): ツェルマットは普通の自動車は規制されていて小型の電気自動車が走り回っている。環境保護というより、路地の幅が狭く急なので電気自動車でないと無理であろう。充電ステーションは見なかったので各自の駐車場で充電しているらしい。
 
Friend(友人): 「おい、若尾でねーか。なんだ島田も来ているのか」とツェルマット駅前で突然声をかけてきたのは先輩の小林吉一さん。30年ほど前になるが、アラスカ・マッキンリー6,194mの遠征隊に参加し登頂している。翌日レストランでまた会って「1週間も居るならマッターホルンくらい登ってこうっ。案外簡単らしいぞ。道具は借りて、ガイドに引っ張り上げてもらえ」という。

Flower(花): 高山植物は日本の勝ち。圧勝である。羊が草を食い尽くすので花は少ない。草がまばらなところまでコロコロが落ちている。アルペンローゼはシャクナゲの仲間で色は赤味の強いピンクで沢山咲いていた。

Glacier(氷河): ゴルナー氷河を間近で見た。氷河の上の岩石は偉そうに角張っているが、氷河の底を覗き込むと下の石は苦労ばかりしたせいかすっかり丸まっていた。自分のサラリーマン人生を氷河の岩石に例えれば、角が少し取れた程度で氷河末端までたどり着いたというところか。多少の苦労はあったが、本当に楽しかった。

Gorge(峡谷): ゴルジュの岩壁に造られた華奢な木製の歩道(有料)を通ってみた。あの硬い岩盤が川の水の砂粒だけでこれほど深く浸食されたのか? それとも浸食を受けやすい岩質だったのか知らないがいわばY字谷である。

Horse(馬): ツェルマット駅前の馬車は最高級ホテルの送迎用である。歩行者天国の道を2頭立て馬車が迫ってくれば、蹄が合計8個あるからX8のような重厚なエンジンサウンド(=高級車)で金持ちに反発する間もなく道を譲ってしまう。これが2馬力の威力というものである。観光馬車は1頭だから直列4気筒エンジンか。なお、袋が馬の尻にくくりつけてあって馬糞は自動的に回収されるから道路は清潔で、いわば排ガス対策は万全である。

Internet(インターネット): 現代の旅にパソコンは必須で、安宿にも無線LANがあり、世界中の情報と友人につながる。朝まだ暗いうちからヘッドライトを点けた若尾さんがロッカーの中間棚板にパソコンを置いて何やらカシャカシャ打ち込んでいた。

Japanese Tourist(日本人観光客): ある団体旅行の昼飯はおにぎり弁当だという。ホテルに注文して作らせたらしいが、展望レストランの席には何か注文しないと座れないのでちょっと寂しい。旅行を企画する側としては食事のコストを下げたいところだが、旅の感動まで失ってしまう。酒+食費として1日1万円近くかかったが、「倹約は帰国してから」を合言葉に両替したスイスフランを使いきった。「日本の方ですか。久しぶりに日本語が聞こえたので・・」と入ってきたのはスウェーデンに留学中という学生であった。スウェーデンはヨーロッパで一番美人が多いそうだが、彼の婚約者(日本人女子大生)も美人だったので、「稗の研究では日本に帰ってから喰えないよ」などとヤッカミ半分で助言。彼は、留学させてくれた親に恩返しをしたい、と感心な青年であった。

Klein Matterhorn(小さなマッターホルン): 槍ヶ岳とマッターホルンを対比した表現をときどき目にするが、槍ヶ岳にそっくりなのはクライン・マッターホルンである。山頂直下の岩壁には、こともあろうにロープウェイの駅舎があり、鉄筋コンクリートと鉄骨の構造物が大きく張り出している。自然破壊だと騒ぐ前にその土木工事技術の高さに驚くほかはない。トンネルを出るとそこは最高地点のグレイシャーパラダイスで氷河を掘り抜いた観光トンネルがある。スイスの岩盤は強固だと何度も書いたが、氷河の氷もいかにも堅そうであった。イタリア側のスキー場に向かって強化選手?達はここから滑って行く。オリンピックの滑降種目では氷河のスキー場で鍛えた選手にかなう訳がないし、レジャースキーは日本の軟らかな雪の方が楽しいと思った。山頂まで続く鉄製階段が見えたので「登山口」を探してみたが封鎖されていた。7月に入れば山頂まで行けるかも知れない。7月に入るとハイシーズンのため旅行費用がかさむので我々は6月末に来たのだが、少し残念であった。遠くに見える山を尋ねるとモンブラン4,811mであった。ヨーロッパアルプスの最高峰(ヨーロッパ大陸の最高峰ではない)を遠くからでも見ることができたのは幸せである。標高3,800mで少し頭が重く感じたが頭痛はなかった。高度障害が出にくい体質らしいと確信した。ゆっくり慣らせばキリマンジャロ(標高5,895m)に登れるかも知れない。

Lake&river(湖と川): グリンデルワルトへ行く途中、インターラーケン(二つの湖に挟まれた古都)を通った。このあたりは平地が広がるが、牧草地と麦かトウモロコシ畑になっていて野菜畑や温室栽培のビニールハウスはない。氷河の水は乳白色で、微粒子は沈殿せずに流れて行くのでU字谷の出口には扇状地が形成されない。これも農業不振の要因であろう。日本の風景(地形)は雨の多さと地盤の弱さが作ったものであり、高い農業生産性があるが繰り返し地震や洪水などに襲われている。

Matterhorn(マッターホルン): 我々は登山家の端くれであるから、ウィンパー(1865年初登頂)に敬意を表すためにヘルンリ小屋より少し先の取り付き点まで行ってみた。鉄棒の足場と太いロープが整備されているが、ほぼ垂直の壁がしばらく続くので「端くれ登山家」にはとても無理だった。双眼鏡で探すと頂上直下の雪面にクライマーの姿が見えた。

Monte Rosa(モンテ・ローザ)山群: 純白の氷河が朝日に染まる様子から薔薇の山という優雅な名前がついた。山群というから頂上は幾つもある。マッターホルンが弧高のスイス人ならばモンテ・ローザは友人の多いイタリア人みたいだ。日本の「モンテローザ」居酒屋グループ(白木屋、笑笑、魚民)はこのイメージを活用か? 居酒屋「マッターホルン」では、敷居が高くて入りにくい。 氷河と山がバランス良く撮れるのは隣のリスカム。氷河の上の岩石が筋状に集まっているのは崩壊が決まった場所で発生しているからか? 理由を知りたいものだ。

Meal(食事)とMENU(メニュー): 記憶に残る美味しい食事はマッターホルン北壁を望む小さなレストラン「Stefel」で食べた川鱒(ます)のムニエル・マンゴー添え、野菜もたっぷり。ガッカリはスイスで食べたスイス名物料理各種。昼飯は必ず景色の良いレストランで食べた。メニュー代わりに写真があって、その番号を告げ、料理を受け取ってレジに並び、そこでビールを頼む。ポークソテーまたはフランクフルトソーセージにフレンチフライドポテトまたはレシュティ(千切りジャガイモを専用フライパンで丸く焼いたパンケーキ)を添えたものが多い。 スパゲッチとかピザも試してみたが高い山脈にイタリア料理文化はさえぎられてしまうらしく、どちらもガッカリ。

National Park(国立公園): 自然保護か観光開発か、最近まで我が国では大きな課題であった。日本は地盤が弱いので急傾斜の地形で工事を行うと崩壊の起点になって連鎖反応を起こしてしまう。しかしスイスは地盤が強固で崩壊の心配はなく、有名どころは国立公園に指定されていないこともあって開発優先、というか登山鉄道が建設されたのは100年も前で当時は自然保護という言葉はなかったかも知れない。

Oil fondue(オイルフォンデュ): 鉄串に刺した細切れ牛肉を油で素揚げしてこってりしたソースをつけて食らうもの。油で揚げる代わりにスープで煮るシャブシャブも食べてみた。チーズフォンデュは当然美味しかった。「やはりパンと合う」と糖質制限の若尾さんも少しだけ味見。パンの他に茹で野菜でもあればよいのだが。

Peakpass(ピークパス): 出発前にスイスパスを入手してあったのでロープウェイ・登山鉄道乗り放題のピークパスが割引で買えた。何といっても乗り放題というのは実に気分がよろしい。スイスパスは使い始める前に駅でパスポートを提示してバリデーションを受ける、乗車前に日付を書き込む(注:乗車前に記入しないと無賃乗車扱い)などの注意点あり。

Queen Size(クイーンサイズ): 太いご婦人をあまり見掛けなかった。休日のチューリッヒ・繁華街の観察だが、ドイツより少ないと思う。同じ芋食民族のはずだが理由は不明のまま。

Railway(鉄道): スイスは鉄道王国だという。高速鉄道から登山鉄道、ケーブルカーまで種類が多く、古い技術と新しい技術が混在しているところが面白い。
架線が1本だからSBB(スイス国鉄)は直流電化だと思っていたが、調べてみると16-2/3Hz 15,000Vという交流電化。整流子モーターを交流で使うとブラシが消耗しやすいので低い周波数に変換するのだが、機関車に積むトランスが重くなって困ったらしい。ゴルナーグラート登山鉄道は三相交流電化のために架線が2本あり、小さなパンタグラフが並んでいる。運転席を覗きこむと架線電圧800Vであった。回生ブレーキで坂を下るのでディスクブレーキの小さいこと。アプト式鉄道にあちこちで乗った。切り替えポイントが特に面白い。ラックは線路より高いので機関車のピニオン(小歯車)がレールに接触することはない。摩耗が心配だが潤滑油は最小限らしく、枕木の油汚れもわずかであった。ラックと小歯車の位置関係は重要で寿命に影響が出るはずだが、実に簡単そうにこなしていた。ビールを飲むとトイレが近くなる。スッキリした後で日本語の注意書きに気がつくと「停車中は使用しないで下さい」とあった(ゴッタルド鉄道)。清潔好きな国民性と矛盾するようにも思うが、スイス人はアジア系民族ほどトイレが近くはないらしい。

Roof(屋根): ツェルマットは石葺き屋根(片麻岩:この色合いが良い)が多いので街の景観がとても良い。石の並べ方が面白く、縁が曲線的に連続している。石の大きさは座布団ほどで厚さは3cmくらい。屋根の勾配はややゆるい。弱点になるのは稜線にあたる部分で、小さ目の石を水平に何重にも重ねてあったが、大雨が降らないから何とかなっているのだろうと思った。

Sister city(姉妹都市): ツェルマットに日本語の看板は少ないが、「新潟県妙高高原町姉妹都市」という大きな看板が山岳博物館横にあった。どういう縁で結ばれたのか知らないが、槍穂を有する安曇村あたりはさぞ悔しがったであろう。

Super market(スーパー): 下山後にCOOPに寄って翌朝の食料や飲料水(注:山には飲める水はない)とオレンジ、ウィスキー、ビールを買い、そのビールは帰り道の公園で飲んでしまい、宿でシャワーを浴びて再び街に出て(歩いて10分)レストランで夕飯。ここでワインを1本あけ、戻ってから部屋でバーボン、つまみはチーズ。昼、午後、夕方、夜と4回も(少しずつ)飲んでいた。同室の客は10時過ぎまで戻って来ないので遠慮は無用というか、いても若造に遠慮するおじさん達ではない。

Trouble(トラブル): 3日間乗り放題のスイスパスを使った。チューリッヒ・ツェルマットの往復で2日分、残りの1日分はグリンデルワルトへの小旅行で使用して元をとったと思っていたが、国立博物館は提示するだけで入れたことに帰国後に気付いた。
チューリッヒの時計博物館(実際には高級腕時計の専門店ビル)に入ろうとしたら、背広を着たサングラスの体格の良い門番にさえぎられた。山ザックを背負っていたので怪しまれたらしい。あんな機械式腕時計など欲しくもないが・・。

Terrace(テラス席): ツェルマット駅前通りに面したレストランのテラス席は良い。雨が降ろうがテラス席である。道路より50cm以上高い(道路が坂なので座る場所によって変わる)ので優越感に浸りながら食事ができる。
旗を先頭に駅の方から歩いてくる日本人団体や白馬が挽く青い2頭立て馬車、黒茶色の馬が挽く赤い2頭立て馬車が蹄の音高く通り過ぎるのを眺めながら最初にビール続けてワインを飲むのは気分が良いが、高い。ので、みんな安い炭酸水やビールをチビチビ飲んでいる。ビールをグビグビ飲んで「お代わり!」という威勢の良い客は少ないようだ。金持ちが集まる山岳リゾートだが、彼らは結構ケチである。テラス席の面白さが分かったので帰りのチューリッヒでは店の外の席に座ったが、歩道に置いてあるので優越感なし。目の高さによって気持ちまでかわるものだ。こういうときは少し奮発する必要があると判断し、燻製豚リブのグリル(僕はメニュー英語には強い)を注文したところ大きな骨付き肉がふたつ出てきた。

U字谷とV字谷: 氷河の浸食でできた地形がU字谷、河川によるものがV字谷だと教わったが氷河による侵食があっても岩盤が強固でなければU字谷にはならない。岩盤が強固(風化・崩落しにくい)だからツェルマットには砂防ダムなどという野暮なものはない。なお、典型的なU字谷を見たければインターラーケンからクライネ・シャイデック(小さな峠)に向かう登山鉄道に乗るのが良いと思う。教科書に出てくる写真はここだと思う。

Window(窓ガラス): 特急列車の窓ガラスがきれいだった。ただしデッキの窓ガラスは曇っていた。ヨーロッパは硬水(蒸発残渣が多い)だから窓の洗い方(水気の拭き取り方)が違うのだろう。ゴムワイパーで完全に水を切ってしまえば水垢は付かないはず。

Watch(腕時計): 妻の土産に電子式腕時計をグリンデルワルトで買い求めた。店のおばさんが自分の手首に掛けてみせながら勧めてくれたが(ドイツ語)、客に通じていないことにも無頓着。しかし日本語の通じる店こそ要注意であろう。

Xero(ゼロ): これは乾いたという接頭語。ツェルマットはとにかく乾いている(のでビールが一段と旨く感じられる)。このような地域は洗濯物を外に干す習慣はないそうだが、貸別荘のベランダに盛大に洗濯物が干してありアジア系の客がいることを伺わせた。

Yodel(ヨーデル): ヨーデルは聴く機会がなかった。駅前でアルプホルンの演奏をしていたり、大聖堂の前で演奏していたりとリゾートらしいサービスがあった。

Zurich(チューリッヒ): 国立博物館の小さな植物園には棕櫚(椰子の木に似ている)、夾竹桃、睡蓮などがあり、温帯地域への憧れを予感させた。やはり冬は寒いのだろう。ホテルはチューリッヒ工科大学の近くであった。短い夏を謳歌するのか奇声をあげて朝まで騒がしいのがいたが、アインシュタインの後輩諸君かも知れない。

「Z」と「ん」: ようやく最後のZまでたどり着いた。昔作ったいろは山カルター「ん」で「マッターホルンも夢、エベレストも夢 / せめて眺めるところまで行ってみたい」と書いたがようやく半分だけ夢がかなった。元の句は「京の夢(出世)、大坂の夢(金持ち)」

おしまい

火の見櫓の研究

2011.01.08 島田賢治

はじめに
上小地域の火の見櫓は四角形の鉄塔で上の階にいくにしたがって節の間隔が短くなり、塗装は銀色、屋根は反りのある四角錐で、避雷針には過剰な装飾があり(風見はない)、軒先にもヒゲのような飾りがあって巻き回数は少しずつ違っており、火の見台は円形または四角形で、手摺りには唐草模様のような装飾があったりして面白い。デザイン優先のツケなのか、梯子を上下とも鉄骨構造の内側においたために乗り換える場所が窮屈で、上の梯子は斜上しているから踏み桟が水平ではなく、しかも殆ど垂直なので(度胸試し?)火の見櫓が消防団員不足を招いている。

歴 史
昔は煮炊きに薪を使っていたから火事が多かった。火を出せば生命・家財を失うだけでなくワラ屋根も多いのですぐに飛び火して大変なことになる。「村八分」という言葉があるが、残りの二分は葬式と火事でこのときばかりは助け合うことになっている。成年男性は消防団活動に加わるのが当然の時代である。
地元の出版物(青年団の機関紙・月報)を読んでみると、大正から昭和初期の上小地域は養蚕業で栄えており各地区ごとに立派な鉄骨造り火の見櫓(警鐘楼)を競って建てたが、昭和18年になると軍艦・大砲の材料として解体・供出せざるを得なかった。現在のものは、朝鮮戦争(昭和25年6月開戦、28年7月停戦)を契機とした経済復興や鉄鋼生産が復活してきた昭和30年から39年の間に再建されたものが多い。僕が住んでいるところの火の見櫓の基礎コンクリートには大正時代の鉄骨を解体した切断跡だけでなく代用品の木柱火の見櫓の跡(穴)が残っている。年配の人に聞くと戦前の火の見櫓のほうが高いものだった、という。たしかに切断跡を見ると材料の寸法が大きい。

デザイン
大正時代の鉄骨造り火の見櫓の手本はエッフェル塔(明治22年完成)であろう。最下層の補強材にアーチを用いるなど相当意識している。そして再建する時に東京タワー(昭和33年完成)の影響を受けたはずだが、そもそも東京タワーがエッフェル塔のデザイン盗用(?)なので火の見櫓は俺が村のエッフェル塔である。もし当時東京タワーではなく東京スカイツリーがあれば三角形の鉄塔に円形の火の見台、そして避雷針が無闇に高いというデザインが流行したに違いない。鉄塔が四角形の場合は円形の火の見台を組み合わせるのが良いと思う。これは東京タワーの第二展望台と同じ趣向である。エッフェル塔の第二展望台を真似て四角形とする場合は小振りなものにしておかないと強制収容所の監視塔のようで気味が悪い。
僕が親しみを感じる火の見櫓は構造力学的な合理性がないものが多い。例えば筋交(スジカイ)は強度面で有利なX字型としたものは少なく、大抵はX字の交点にリングを配置しているが、肝心のリングが薄肉なために(剛性不足)消防団員は恐怖感を余分に味わっているはずだ。(半鐘との相互作用で揺れが増幅される場合は、半鐘を外せば揺れが少なくなるかも?)
この設計のルーツは鉄道の跨線橋の橋脚であろう。鋳鉄柱4本で垂直荷重を受け、筋交の交点に厚肉のリングを配置した構造である。鋼鉄橋桁は温度変化によって膨張・収縮するので、水平方向に逃がさないと鋳鉄柱に無理が掛かり亀裂を生じる懸念があるのでその工夫であった(はずだ)。元設計の意図を理解せずに鉄道省と同じ形ならば間違いあるまいと考えた鍛冶屋が手近にあった薄板を巻いてリングを作り、このデザインが各地に拡がっていったと思う。構造力学を知る鍛冶屋はリングの直径を小さくして剛性を上げた(あるいは単なるコスト低減かも知れない)。とにかく火の見櫓といえばこのリング付きの筋交である。
鋳鉄柱の跨線橋は中央線小野駅前を通りかかった時に偶然見つけたのだが、技術遺産としての価値を知っているらしくわざわざ再利用している。他にも新潟の柏崎駅、鯨波駅にあり日本海と同じ深い青色に塗ってある。横川駅の「鉄道文化むら」にもあるが、横川まで行かなくてもしなの鉄道大屋駅(明治29年開業)の2番線ホームの東の外れにある。大屋駅は駅舎、振り子時計、初の請願駅など歴史遺産が多い。

転落と感電の危険性
最初に火の見櫓は度胸試しと書いたが、安心・安全の配慮がもう少しあっても良いと思う。下の梯子を鉄塔外面に取り付け、上の梯子は鉄塔内側という構造にすれば梯子に傾斜をつけやすいし、乗換えも楽になる。自分の故郷の茨城県北部はこの形が普通である。
梯子の踏み桟が19mm丸棒1本あるいは30mmアングル(断面がL字型で板厚が3mm)というのはどちらも良くない。安心感があるのは13mm丸棒を2本並べたもので、つかんで良し乗って良しである。この部分は火の見櫓観察の重要なポイントで、ユーザーの立場に立って物を作っているかどうか、鉄工所のレベルが分かる。

三角形の火の見櫓の梯子は大抵外側1本なので高所恐怖症の消防団員には辛そうだが、海善寺北の火の見櫓の梯子にはケージ(鳥かご状の安全柵)があって優しい配慮である。ケージを付けるのも良いが、実はそもそも登る必要性がなく、新しいものはコンクリート柱にサイレンと消防ホースを吊り上げるウィンチだけになっている。
火の見櫓の代わりに梯子に半鐘というものもある。高森町で見たものは、最上部にループがあって上半身だけくぐらせて安定した態勢で半鐘を叩けるようになっている。普段は下から観察しているが、このときばかりはちょっと登ってみた。
本来最上部にあった半鐘を火の見櫓の中段(踊り場)に下ろしてあるところは多い。近所に緊急事態を知らせるには低い方が使いやすいというか高齢者にはとても登れない。また、半鐘の他に木の板を下げてあるところもある。(上田市山田池近く)これは公民館の集まり(飲み会など)で出席者が少ないときに「集まれ!」と叩くそうだ。

火の見櫓には避雷針がついているが、肝心のアース線(太い電線)がなくなったまま、または細すぎるので落雷があれば防災の拠点が災害の発生源になりかねないところが多い。祢津大川分団の火の見櫓は避雷針からアース線を新しく引き直してある。電線管に入れてあるのは盗難対策であろう。鉄骨本体から太いアース線を新規に取り直したところもある。
また、小学生がいたずらで登らないように梯子の下端を切り取ったところもある。これは神川小学校近くの火の見櫓であるが、危険予知のセンスがある消防団ではこういうところも放置しておかない。半鐘の叩き方には決まりがある。普通は火の見櫓の下に掲示してあるが、稀に火の見台にも掲示してあるところもある。高所恐怖症の新人団員が度忘れしたときに役立つだろう。これも優しい配慮である。

リベット(鋲)とネジ(螺)
火の見櫓の用途は消防ホース(20m)を干すことなので高さは10mあれば良い。だが、いわゆる3本梯子という15m級の火の見櫓が存在する。ちょっと数えてみると神畑、石井、腰越、飯沼(最近撤去)、新張、東上田などで地区の中心地であることを誇示しており、たいてい銘板が付いているので製作メーカーがはっきりしている。大半は神畑の宮島工業が施工しており、リベットの数に特徴があって縦5本も打ってある。リベットは縦3本打ちが多いが縦4本打ちのものを先日初めて見た(旧望月町協和)。火の見櫓は一種の縁起物なので4本はどうかと思うが施工はしやすいだろう。
リベット接合は古い技術であるが、多少の誤差を現場修正しながら組み立てることができる。最近増えた携帯中継局は直線的なデザインだが、微妙な曲線が火の見櫓にはあり、リベットならではのものであろう。昭和30年代後半に建設されたものはリベット頭が不揃いである。腕の良い職人がいなくなったか、雑な仕上がりでも構わないと思ったのか。
昭和40年代に入るとボルト・ナットになって職人の腕前に関係なくなり、さらに屋外で電気溶接ができる頃には火の見櫓建設ブームが終わっていた。ボルト・ナットや溶接の火の見櫓は寄付金がなかなか集まらずに再建が遅くなった地区である。このような火の見櫓にはデザインの乱れがあり、あまり美しくない。

火の見櫓いろいろ
高校野球で名を馳せた四国の旧池田町で鉄塔が台形という火の見櫓を見た。短辺の部分が梯子で他の3辺は筋交いが入っている。なかなか合理的な構造であるが飾り気が無いわけでもなく屋根の軒先に巻きヒゲ(半回転ほど)があり、避雷針には風見が付いていた。強風のときは錆ついた風見がクルクル動いて相当な騒音源になりそうである。
九州一周ドライブでは火の見櫓を殆ど見掛けなかったといってもよい。山間部には多少あったが、潮風による腐食が厳しい海岸沿いには少なかった。西彼杵(ニシソノギ)半島の西海岸を南下していた時にやっと見つけたと思って近寄って見るとそれは教会の鐘であった。上小地域の火の見櫓によく似たデザインであるが、本来は避雷針が付くところに十字架があり(隠れ避雷針があるかも?)、ロープを引いて鐘を鳴らすタイプ。(長崎市黒崎教会)
巨大な石橋(通潤橋)があることで有名な熊本県山都町で見た火の見櫓は三角形鉄塔の一面を梯子に使うという合理的な構造であった。火の見台も全周均等に張り出すものではなく必要なところだけなのでアンバランス、溶接構造であることや材料がパイプ材であるから昭和40年代以降のやや新しいものであろう。塗装色は鈍い赤であった。
高速道路で名古屋方面に向かって行くときに飯田ICの手前西側(高森町)に水色塗装の火の見櫓があり、通りかかるたびに気になっていた。この地域の火の見櫓は水色なのかと思ったがその1基だけで他はシルバー塗装であった。水色の火の見櫓は新潟県燕市でも見たことがあるがやはり珍しい。
松本市鎌田南にそびえる立派な火の見櫓は、銘板に昭和5年竣工とあるから戦時中の金属供出を免れたものである。これで戦前の火の見櫓のデザインがはっきりするが、当時の国策に抵抗して守り通した貴重な歴史遺産だと思う。戦争直前に消防団は役割を拡大して警防団になる。従来の消防・水防だけでなく空襲警報発令(防空)も担うのである。
山梨県の大月市から富士吉田市にかけても火の見櫓が多い。デザインが上小地域のものと似ているので珍しいとも思わず通り過ぎてしまうが、富士吉田市内の国道137号線を富士浅間神社に向かって行くと右手にユニークな火の見櫓があってこれは一見の価値あり。通路上(バスでも通行可?)に火の見櫓を建設したので大きく脚をひろげた構造になるが、全体的に曲線で形成されており、遊園地にでもありそうな格好である。火の見櫓マニアの間では知られているようだ。
近いところでは、五輪久保から芦田に通じる県道沿いには2階式(下が消防庫でその上に大きく脚を開いた火の見櫓が付く)が多い。旧丸子町にも少数ある。また旧真田町に多く、特に広々とした菅平高原は殆ど2階式である。どうしても消防庫が狭苦しくなるのでメリットは無いように思う。設計者に意図をたずねたいほどである。

最後に僕の好みの火の見櫓を紹介しておこう。佐久市桜井にあるものだが鉄塔部は三角形細身で必要以上に高くもなく火の見台は小振りの円形で屋根は反りのある円錐、避雷針には控えめの装飾がある。赤く塗られた半鐘(青銅製ではないらしい)は横に張り出した腕に吊ってあってスピーカとバランスをとっている。赤色のグローブランプがまた良い。
  おしまい

いろは山カルタ

07.4.2 島田賢治

山カルタを作ってみました。絵(画像)もつけたいので写真募集中。

イ:「位置を聞くのはGPS」 意外に電気を食うので電池切れにご用心。元は「位置を聞いて住を知る」ではなく「一を聞いて十を知る」。
ロ:「ローソンで装備(登山用品)」 懐中電灯、雨具、水筒、医薬品、遭難したとき役に立つ携帯電話充電器(予備電池も)などコンビニにあり。元は「論より証拠」。
ハ:「ハーケンよりナッツ」 意味はふた通り。ナッツ(ピスタチオなど)はビールを連想させ、岩登りより酒の方が良いという意味。もうひとつは岩登りで使用するナッツ。近頃はハーケンを使わないそうな。
ニ:「二度つまずくと三度目は転ぶ」 歩き疲れると思っている程には足が上がっていないから躓く。平坦な道が案外危ない。
ホ:「掘れるのは雪庇の下」 スコップだけでなくノコギリもあると便利。雪洞を掘るのは楽しいが泊まると寒い。ストーブを焚くと天井から水滴。元は「惚れたが因果」。
ヘ:「へこたれの長談義」 休憩時間を延ばそうと話が途切れないようにする人あり。「下手の長談義」が元。
ト:「年寄りの沢登り」 コースは三途(ず)の川かい?向こう岸に行かないように。
チ:「地獄の沙汰も金次第」をひねって「捜索ヘリも掛け金次第」山岳保険を1口しか掛けていない人は絶対に行方不明にならないこと。
リ:「律儀者の重装備」共同装備を率先して担ぐ佐藤(誠)さんのイメージ。元は「律義者の子沢山」働き者は夫婦仲も良いので・・・という意味。
ヌ:「濡れ手袋は凍傷のもと」凍傷にかかりやすい人は替え手袋を忘れずに。
ル:「瑠璃(宝石)もはり(ガラス)も照らせば分かる」を元に「LEDもハロゲンも照らせば分かる」 LED(発光ダイオード)のヘッドライトは冷たい光、ハロゲン電球は暖かい光。
ヲ:「老いては恋にしたがう」 怪しい熟年の二人連れ登山。疑わしいときは「本物のご夫婦ですか?」と聞いてみよう。
ワ:「笑う膝には怪我来る」 笑いやすい人は半ズボン禁止。
カ:「鹿島槍は猫の耳」 下り獅子と鶴(雪形)もいて動物園のよう。(創作)
ヨ:「夜遠い傘の道」 雨の夜道をトボトボ歩いている様子。元は「夜目遠目傘の内」で、女性がきれいに見えるという意味。
タ:「太郎山の逆さ霧」 天気が変わるときに現れる。元は「立て板に水」。
レ:「レジ袋で起こされる山小屋の朝」 早発ちする人達がザックのパッキング。ポリ袋がガサガサうるさい。
ソ:「総領の甚六」をひねって「リーダーの甚六」 山行が彷徨になってしまわぬようサブリーダーが舵取り。「甚六」さんはサザエさんにも登場しますね。
ツ:「剱とスバリ」黒部川をはさんで背比べ。元は「月とスッポン」。ツとスが揃って、意味も同じという自信作。スバリ岳は針の木岳の隣の山。
ネ:「念のためにトイレ」 横尾のトイレは心配性の女性登山者で行列ができる。急ぐご婦人は男子トイレに直行。元の句は「念には念をつがへ」
ナ:「半井(ナカライ)さん秋田と岩手に高気圧」 近頃現れない気圧(?)の谷間。(創作)
ラ:「落(石)あれば苦あり」 石は落としても落とされても危険。
もうひとつ:「ラッセルの先頭も新人から」 元は、「鰯の頭も信心から」 
ム:「無理やり通る日電歩道」 黒部峡谷下の廊下の別名。黒四ダム工事の測量隊が通った道。暖冬だったのでお盆前に開通か? 「無理が通れば道理引っ込む」が元。
ウ:「牛を馬にする」に色をつけて「赤牛から白馬の大縦走」 奥黒部ヒュッテから水晶岳までの登りがきつそう。(大雨のなか読売新道をかけ下ったことあり)
ヰ:「亥年に作った山カルタ」 元は「ゐり豆に花が咲く」
ノ:「登り終えれば苦労忘れる」 乗鞍岳のヒルクライムレース(自転車)は毎年8月最後の日曜日。去年のタイムは2時間12分。
オ:「負ふた子に教へられ浅瀬を渡る」をひねって「遭難者に教わる救助法」。
もうひとつ:「おんぶと抱っこの家族山行」ぐずる子をおんぶするのはお母さん。荷物は全部お父さん。
ク:「果(くわ)報寝て待て」をひねって「予報見て待て」 天候回復を信じて待て。ただし、NHK7時半の土日の担当はペッタンコ山本。高気圧がないから曇り空か。
というわけでもうひとつ:「曇っても槍」 見えぬ辺りが槍穂高♪。元は「腐っても鯛」
ヤ:「病は木から」 ウルシかぶれに注意。
マ:「待てばシャッターチャンスあり」 山岳写真はタイミング。元は「待てば甘露の日和あり」
ケ:「ゲイの登山客お断り」 男のような女はときどきいる。元は「芸は身を助ける」。
フ:「武士は食わねど高楊枝」をひねって「山やは食後に爪楊枝」 顔は洗うな、歯は磨け。垢は日焼け止め効果あり。
もうひとつ:「フリーはやりたし度胸はもたず」 クライミングは人工壁でも怖そう。
コ:「コンロは山岳会のカセット」 元の句は「子は三界の首枷」。韻を踏んだだけの駄洒落。
エ:「閻魔の色仕掛け、朝焼け夕焼け」 今日は雨合羽なしでもOKと思っていたら大粒の・・。とにかく山の天気は変わりやすく、用心しすぎはなし。
テ:「亭主の好きなキノコ採り」 奥さん達はどちらかと言えば山菜採りの方が好き。
もうひとつ:「テントの窓から観天望気」 観天望気は外に出て四方を見渡すのが基本。
ア:「足もとを見て鳥肌が立つ」 剱岳の難所カニの横ばいのイメージ。元の句は「足もとから鳥が立つ」 意味はびっくりすること。
もうひとつ:「阿弥陀でお陀仏」危険な山には仏教関係の名前多し。元は「阿呆につける薬がない」
サ:「ザックに熊鈴」 子連れ熊に出っくわし数メートルの近さで威嚇されたことあり。元の句は「竿の先に鈴」 要するに騒々しいこと。
キ:「キナバル山にプチ遠征」 ボルネオにある東南アジアの最高峰(標高4,095m)。赤道直下なので高山病が出にくい。
ユ:「ゆうべ(昨夕)から鼻風邪」 ドタキャンの言い訳。 元は「幽霊の浜風」。
メ:「メスナーの岩登り」 往年の名クライマー、知っているのは団塊の世代。(創作)
ミ:「身は身で通る山屋のスキー」 ゲレンデのど真ん中を登高するのは止めましょう。「身は身で通る赤ん坊」は、ありのままで生きる様。
シ:「吝(しわ)ん坊は素手でピッケル」 手袋が傷むとて素手でピッケル。ただし下りは手袋をかならず着けること。雪で手を切ることあり。
ヱ:「縁の下のハタケシメジ」 自宅庭に毎年発生するので楽しみ。
ヒ:「昼飯(行動食)もコンビニ」 家で作ったオニギリより日持ちするが、早めに食べよう。
モ:「桃栗三年柿八年」をひねって「山菜三年キノコ八年」 雑キノコの見分けは本当に難しい。
もうひとつ:「門前の小僧習わぬ経を読む」を元に「上高地のタクシー 槍穂の解説」 登っていないのに細かいところまでよく知っている。
セ:「背と腹にダブルザック」 足元が見えないので歩きにくい。
ス:「据え膳食わすは山女の意地」 ありがちな駄洒落で失礼。
ン:「マッターホルンも夢、エベレストも夢」。元は「京の夢(出世)、大坂の夢(金持ち)」。でも眺める所までは行きたいですね。     
あがり
追記:「いろは歌」には「有為の奥山今日越えて・・・」とありますから案外山岳会系ですね。

個人メドレー式随筆

05.4.30 島田賢治

(1)始めは戸隠の妻たちについて(山名考)
戸隠連峰の北東の端に一段と高い山がある。それが高妻山・乙妻山だということは知っているのだが、どちらが高妻山だっけといつも迷っていた。鬼無里村のさき子さんにその話をしたところ、「高妻山=甲妻山だから、乙妻山の次があれば丙妻山ね」と言う。戸隠牧場から見て手前が高妻山でやや高く、奥の方が乙妻山(奥妻?)である。
妻とは建築用語で長方形の短辺という意味で(長辺は桁)「切り妻」屋根がわかりやすい例である。また縁側がL字形になっている場合は短い方を妻縁側と呼んだりする。
戸隠(表山)が一夜山から五地蔵まで長く一直線に並び、高妻乙妻連峰が直角に交わっているから「妻」という名前がつけられたと思われ、結婚と関係はなさそうだ。

(2)妻から「ツマ」へと続く(構造力学)
爪楊枝(ツマヨウジ)で作る橋の話。日本航空専門学校は市販の爪楊枝と木工用ボンドだけを使い総重量100g以内で長さ50cmという条件で強度を競うコンテストを毎年行っている。アーチ橋、トラス橋など道路・鉄道で使われている形式だけでなく実用性がない奇抜なものでもかまわない。楊枝の内部に木工用ボンドを浸透させて爪楊枝そのものを強化するのもOKである。
競技は中央に錘を吊るして荷重をかけてゆくという(10秒間耐えたら錘を追加)方法でおこなう。
当初の優勝記録は171N(ニュートン、従来の単位系では17.5kgf)だったのが去年のコンテストでは1,863N(190kgf)に達したという。この競技は機械工学の構造力学の実習に好適で、丸子実業高校の学園祭でもやったことがあるようだ。

(3)爪楊枝橋から刎ね橋へ続く(歴史)
先日、北陸方面に旅行した時に黒部川の愛本橋と「うなづき友学館」に立ち寄った。「大屋刎ね橋」の研究はまだ終わっていないのだ。江戸時代に愛本橋(刎ね橋)が架かっていた地点は両岸の岩盤によって川幅が狭まっているが、それでも50m程はあった。上流側も下流側も川幅が広がっており、まさにこの地点しか架橋できないし、そして刎ね橋でなければならないことが分かった。
宇奈月町歴史民族資料館「うなづき友学館」には江戸時代の愛本橋を1/2縮尺で復元した巨大な模型(1/2縮尺だから本来は32mだが、半分しかないので全長16mの模型)が目玉である。
橋桁が空中に突き出しており、向こう岸には映写用のスクリーンがある。短編映画が上映され、愛本橋の歴史の他に冠松次郎の黒部川遡行(大正時代)や宇奈月温泉の引き湯の苦労と裁判(大正時代に7km上流の黒薙から木管で引き湯した。その木管が他人の土地をごく僅か侵害していたことに目をつけて土地を高額で買い取らせようとした)など盛り沢山であった。
さて、愛本橋は加賀藩が建設したが、木造であるから定期的に架け替えなければならず苦労だったらしい。愛本橋には杉の大木が40本も必要で、黒部の山だけでなく神社の森からも伐りだした。架けかえ工事には数年かかるので、その間は繰り船(両岸に渡した綱に舳先の金具を通しておき、綱を手繰って進む)で渡していたという。
館長に「愛本橋の渡り賃はいくら?」と質問してみると「記録がないので無料ではないか」という答えだったが、当時の橋は有料が普通で無料ならば特筆大書してあるはずだ。

(4)黒部川から富山湾へ(蜃気楼と蛍烏賊)
4月の富山湾と言えば、蜃気楼である。一説には、北アルプスの雪解け水が富山湾に流れ込み、海面に近い部分の空気が冷却されて光が屈折するから…という。
黒部川(鷲羽・雲の平が源流)、常願寺川(立山が源流)、神通川(槍穂高連峰の西面が源流)などいかにも冷たそうな川が富山湾に流れ込んでいる。しかし、本当だろうか。例えば一番水量が多い黒部川では扇状地の頂点(愛本橋のすぐ上)で取水されてしまうので本流の水量は案外少ない。比重差によって海水と混ざることなく冷たい真水が沖の方まで押し出してゆくというのはちょっとあり得ない。
二日ほど前に金沢方面へ車で出張した帰り道、ホタルイカを「いしる」という魚醤に漬けて干したものを買ってきた。「ライターで炙りながら食べたら美味しかった」という下崎談話を思い出し、着火マンの方が使いやすかろうと試してみたが風情がない。やはりマッチの火で炙るべきで、「いしる」の独特の香り(クサヤほどではないが)にマッチを擦ったときの硫黄の臭いがバッティングされ絶妙の肴になる。

(5)能登半島の西側へ(観光と自然保護)
三国は九頭竜川の河口にあり、北前船の寄港で栄えた港町である。名前が「九頭竜」だから相当に暴れる川であることは疑いない。大水のたびに土砂が流れ込んで港が浅くなり船の出入りに差し支えるので、大阪土木局のオランダ人技師エッセル設計、デ・レイケ監督のもと長さ500mの突堤を築き、対岸にも川幅を狭めるような堤防を築いて土砂が沖の方まで流れてゆくようにした。大工事で明治11(1878)から明治18年(1885)までかかっている。
粗朶を3m角の筏のように組み、石を載せて沈めて基礎とし、その上に石を積み上げるというオランダ伝統の工法(不等沈下を防ぐ)であった。漁礁にもなるので自然に優しい工法である。
しかし、である。この突堤建設に必要な(おそらく数万トン)の岩石は近くの東尋坊から船で運んでしまった。東尋坊の岩は柱状節理なので天然のクラックがあり、そこに楔を打ち込むだけで簡単に採石できる。東尋坊は北陸を代表する景勝地であるが、オランダ人技師には手頃な採石地にしか見えなかったのだと思う。
なお東尋坊には、転落防止の柵や「危険注意」というような看板(どちらも無意味だ)はなく、各自の判断で崖っぷちまで行くことができる。採りやすい岩石は全部突堤に運んでしまったのか不安定な浮き石はない。崖をクライムダウンしている観光客(お調子者!)もいたが、岩場のグレードとしては初心者~初級向けである。
その昔、この崖の上で「東尋坊」という名の悪僧を酔わせて突き落としたという故事があるからここでの酒盛りは程々にしたほうが良い。

(6)三国といえば越前蟹(ズワイガニ)
ローカル線のえちぜん鉄道三国駅で三国港駅(終点)行きの電車を待っていると、待合室の観光マップが目に入った。観光名所に蟹の絵(小さなマーク)が貼り付けてあるが、色が真っ赤で脚が細く短いので茹でた沢蟹のように見える。ちょっと笑ってしまった。
一階が魚屋で二階が小料理屋になっている店に入ってみた。蟹の食い納めということか(漁期は3月20日の夜12時まで)職場のグループや家族連れで賑わっていた。
越前蟹も旨かったが、魚屋の軒先に干してあった赤鰈(かれい)は旨みが凝縮されており美味にして低価格であったが、こんなものを注文するお客は珍しいようで、店の奥から価格設定の相談の声がする。聞いてみると、赤鰈の干物は魚屋の店先では1串(5匹)単位で売っているので、2匹だけ焼いてくれという場合はいくらになるか相談していたそうな。いっそのこと1串焼いてもらっても良かったのだが、まわりのお客が蟹を食べているのに亭主が干し魚をワシワシ喰っていたのでは、丙妻が恥ずかしがるだろうと気を利かして止めておいた。
雑魚のような話題を串刺しにしたエッセイはここまで。

スイスオートルート2005スキーツァー紀行

オートルート (LA HAUTE ROUTE) 報告(前編)      
             05・3・19〜4・3  16日間 藤井洋一
3月19日
成田よりスイスのジュネーブ空港到着。送迎車で国境を越え、シャモニー(フランス)に入る。

3月20日 晴れ
身体慣らしにエギュユ・デュ・ミデュよりブァレーブランシュを滑る。朝、ロープウェーの駅でフランス人ガイドのMRギイとの顔合わせ。何を言っているか解らないがまずはよろしく。
ロープウェーに乗り、その終点は別世界。アルプスは見渡すかぎり山また山。今まで写真でしか見た事のないモンブラン、ミデュ針峰群、グランドジョラスなど数々の名峰に胸踊り興奮し心臓が高鳴る(高度のせいもあり・3842m)。

いよいよスキーで滑る準備。まずトイレに行って一息。ビーコン、ハーネス等を装着。
トンネルを通って雪稜に出る。(途中にイタリアからのゴンドラ有り)手すりとステップの有る雪稜を50m位下り、スキーを履く。ガイドがメンバーの足前を試すかの様に一番傾斜のキツイ所を滑ると言い出した。皆で「それは無いだろう。」と言っても言葉が通じない。行くしかないので、皆ガイドの後について飛び込んで行く。私はまず始めにクレパスの近くで転倒。おーこわー、よく見ると靴を良く締めて無いではないか。何をしているか。自分に喝を入れ、気を取り直してガイドの所まで滑り降りる。いよいよ22kmブァレーブランシュだ。

ガイドの後について緩斜面を滑る。息は切れるし足がパンパンになる頃、やっと一息。でも皆が集合するとガイドは出発。必死でついて行く。途中写真を撮る時は待っていてくれるので写真を撮りながら下ることにした。小屋でお昼になったので休んでいると「何かを買わなければ此処に入れない。」といわれ一番安いお茶を買って休む事になる。この小屋より下を覗くとこれから滑る緩斜面が延々と続いている。
ガイドがグランドジョラス北壁のよく見えるコースを滑ってくれたのはありがたい事だった。所々にアンザイレンをして下るパーティーも見える。ほとほと滑るのが嫌になった頃、下まで滑るとスキーを担ぐはめになるので登山電車で下る事になりホットした。と思ったら階段登りのキツイことこの上なし。やっとの思いで着いたら今度は電車がすぐ来るとのこと。休憩も無しで電車に飛び乗る。きつい一日だった。

3月21日 晴れ
グラモンテスキー場のゴンドラで上がり、アルジェンチュル氷河へは雪は少し重いが快適に滑り降りる。対岸には明日登るシャルドラのコルを目指して数パーテーが登っている。いよいよシールを付けて小屋を目指す。小屋は山になじんだデザインで素晴らし景観の中にある。これぞアルペン的と言うのであろう。早く着いたのでお昼にオムレツを食べお茶を飲みながら靴とシールを乾かし昼寝をする。
時々軽飛行機が飛んできてお客を降ろしていく。対壁を登ったパーティーの装備を拝見したり、ビールを飲みながら日光浴しているビキニの美女を眺めたりと楽しい午後のひと時をゆったりと過ごす。入山祝いをワインで乾杯し、スープから始まる夕飯になる。
コースタイム
ゴンドラ・・・・・グラモンテ・・・・アルジェンチュル小屋
10:00    11:00    12:30 
         
3月22 曇り   
これがヨーロッパの驚くべき朝食か。硬いパンにコーヒーばかりだ。
出発。カリカリのアイスバーンの氷河をひと滑りで登り口に着く。下部の急斜面はスキーを担ぎつぼ足で途中よりシールを付けて登る。コルに着くと先行パーティーがおり、せまいコルは満員だ。順番待ちで時間がかかる。サレナ側は雪が少なく急斜面なので、足にはアイゼンとガイドによるザイルの確保で3ピッチ70mを2時間もかかった。このごろから天気も悪くなり始める。サレナの窓の登り口まで滑る。登りは小1時間でサレナの窓に着く。この頃より雪と霧で視界が極端に悪く5mぐらいしかない。
トリエンプラトの端でダダッ広い緩斜面を先行パーティーのトレースを忠実にたどるが、小屋まで1km位の所でホワイトアウト。地図とコンパスと高度計を見ていると霧が晴れ、目の前に小屋が有るではないか。これで一安心。2時間もロスをして小屋に着く。此処のトイレは小屋の外にある。あいにく今日は雪がだいぶ強くなってきた。私は夜トイレに起きるので外のトイレはきつい。この小屋はネパール人が働いていて英語の会話は彼とするだけ。でも何とか通じ、紅茶にブランデーを入れ美味しく頂く。もうすぐ夕食になる。
コースタイム
小屋・・・・取り付き・・・シャルドラのコル・・・サレナの窓・・・トリエン小屋
7:00  7:45  10:30 12:30  13:40  17:50

3月23日 晴れ
今日はスキーを履いている時間が一番短い日。それでもいつものように朝7時には出発。昨夜の雪も上がり良い天気になる。快適に新雪の中を滑り降りる。途中氷河の下部はクレパスやセラックが有り緊張もピークに達する。眠気も一気にどこへやら。スキーをつけ横滑りでアップザイレンで降り、トラバースして今日の最後の登りエキャンデーコルに着く。登り30分でコルに着く頃には疲れるが後は滑るだけ。
この谷はオートルート中でも有数の滑りを楽しませてくれる所だ。標高差1400m距離8kmの大滑降を楽しむはずだったが、上部はまずまずだが下部は昨日は雨だったため、日本の3月・4月のような雪で悪雪このうえもない。長い長いコースなのでなるべく疲れないようにと滑るのだがどうにもならない。途中休んでいると、後続パーティーが来たので写真を撮りあう。長い滑りがやっと終わりビールをと思ったら店は全部クローズ。クローズとは何だ、リフトは動いているのに。.
11時に車が迎えに来てベルビエにつく。町で昼食を食べ、ゆっくりしてゴンドラで小屋に向かう。此処は大きなスキー場の中にある新しい山小屋。そこの客と同じように庭に出てワイン、ビール、手紙書き(私が帰国してから手紙が着いた)など楽しみ、午後のひと時を過ごす。また此処ではシャワーも使えて快適な山小屋だった。(2ユーロで3分)
コースタイム
小屋・・・シャルドネのコル・・・シャンペ・・・ベルビエ・・・モンフォの小屋
7:00  8:30    9:50    11:30    14:50

3月24日 晴れのちガス
今日は1番長い行動日だ。いつもの朝食を取り、4時出発。月明かりとへッドランプを頼りにショーのコルをめざす。コルにつく頃明るくなりシールをはずしアイスバーンを横滑りで降り、後はトラバースぎみに行きシールをつけコルに。ドマモンのコル前方にはローザブランシュが見え、後方にはモンフォーが見える。途中で反対方向からきた8人位のパーティーが別の氷河を降りて行くのを見て、ローザブラシュに向かう。途中よりデザート氷河を快適に滑り(私的にはこのルートが1番良かった。斜度といい新雪といい私にはピッタリで、4日目にして初めてスキーの先を下に向けて積極的に滑れた。)ブラトリア小屋まで。ここでレモンなどの腹ごしらえをし、シールをつけ登りにかかる。コルドセブローのコルからはディス湖が見える。ここからは見ただけでもうんざりするような長さと、雪崩の巣を通過しなければならない。幸いにも雪崩は落ちきっているようだが、デブリ超えの連続の中のトラバース。これがまた大変。水のある川を見つけそこで大休止。少し先からの登りに備える。この頃より天候が悪くなり始める。今日最後の登りはスキーアイゼンを付け、ゆっくり確実に高度をかせぐ。小屋につく頃雪と風が強くなり明日が心配だ。
コースタイム
小屋・・・シャーのコル・・・2番目コル・・ローザブランシュの手前・・・ラトレア小屋・・・
4:00 6:10−25  7:50−20  9:40−20     10:20
ロアーコル・・・・・ディス湖・・・・・・取り付き・・・ディス小屋
11:10−30  12:35−55  14:30   17:20

3月25日 晴れ
朝起きると快晴。今日は行動時間が短く、ビンタローラを超えるだけ。でもいつもどおり7時出発。アイスバーンのカリカリを滑り、途中でシールを付け登る。また急な所ではアイゼンを付け、クレパスに気を付けて登る。2つのコルを越えビンダローラが見える頃へリが頻繁に飛んで来てお客を下ろしている。シャイロン氷河を登りつめる。
今山行の最高点(3796m)ビンタローラに登頂。他の登頂者にアルジェンチェールから来たと言ったらクレージーと言われる。360度のアルプスの大パノラマを満喫し、広大な斜面を滑り込む。上部は気持ちよく滑ったが、すごい崖の上の小屋が見える辺りから氷河の氷が出ていてカリカリで慎重に下る。小屋に着くと同じルートをたどっているパーティーが先に着いてビールを飲んでいた。私もご馳走してもらったが、その一口の美味しかったこと。イースターの休暇でお客はいっぱいだ。
コースタイム
デス小屋・・・ピンダローラコル・・・・ブィニット小屋
7:20    12:00−13:00  13:30

3月26日
今日1日でオートルート完走だ。でも天候はいまいち。雪と霧の中先行パーティ−のトレースをたどる。天気も悪く、ただ前の人のスキーのテール見ながら黙々と歩くだけ。天候が良ければ素晴らしい景色だろうなどと思い一つ一つコルを超える。最後のコルまで1時間位と思ったが2時間もかかり山の大きさを新たに感ずる。此処はイタリアの国らしい。ブァルベリーヌのコルだ。
此処からはなかなか見られないというマッタホルンの南壁の素晴らしいながめも霧の中。ツムット氷河を一気に滑り、北壁の真下に滑り込む。今年は雪が少なく途中のモレーヌでスキーを脱いだり履いたり、ロープウエーイの時間を気にしながら最後の力を振り絞る。懸命に林道をスケーティングでフーリーを目指す。ロープウェイが動いていたのを見てほっと一息。皆でオートルートの完走を祝い握手で労をねぎらう。皆には感謝の気持ちでいっぱいだ。ホテルでチェクインを済ませ、ゆっくりバスにつかった後レストランで盛大にオートルートの完走を祝う。メンバー皆で夜遅くまで楽しく過ごす。
コースタイム
小屋・・・エベックのコル・・・モンブルーコル・・・ブァルベリーヌのコル・・・
6:50  8:50−10   11:00    13:50
モレーヌ・・・・・ フーリー ・・・・ツェルマット
15:40−20 16:50    17:30

スイスアルプス展望紀行

2004.7.318.7 若尾

一度は行って見てみたいと思っていたスイスアルプス。ついに念願がかないました。家族に病人も出て一旦はキャンセルしましたが、早くに快復しましたので、まだ空いているか確認したら、空いていたので再度申し込み。この年代になるとなかなか先の長い計画は立てられない状況ですし、行ってみても、天候不順やその他のトラブルで所期の目的を果たせない可能性も低くない中で、決して安くはない費用での旅行でしたが、清水の舞台から飛び下りたつもりでの決断でした。結果は最高で、神頼みが通じたようです。

730

山梨にいる次男坊との合流の都合もあり、上野に前泊。上野駅の新幹線改札に切符を全部置いてきて出られなくなった人もいましたが、戻って切符をもらってきて無事出場できました。

731

上野から成田へ。忘れ物もなく無事入国審査も済ませたと思いきや、次男坊が携帯電話を外に落してきたとの騒ぎ。一度入国審査が済んで入ってしまうと、簡単には出られないし、行っても見つかる保証はありませんでしたが、係員にお願いして出場、携帯もすぐに見つかって万歳でした。

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成田からミュンヘン経由でチューリッヒへ。この日は特に何もなく明日からの展望と天気に期待でした。

82

チューリッヒから電車でスイス最古の都市クールへ。途中の山々とハイジの里を見ながらの鉄道の旅です。クールから氷河特急に乗り換えてツェルマットへ。時速35Kmのゆっくりした特急で山越えの鉄路です。その食堂車で豪華な昼食をとって、ゆっくりとツェルマットへ。ツェルマットに着くと雲がかかりながらもマッターホルンがしっかり見えていました。とりあえずは、見えた!で感激。その後、雲はどんどんとれてホテルでの夕食の頃は快晴。夕空の中のマッターホルンを眺めながら屋外でのディナーでした。泊まったホテルは駅からは遠く、歩きで20分ほどの坂を登った所のホテルですが、裏庭は牧草地でしっかりマッターホルンの見える最高の場所でした。

この日は奇しくもスイスの建国記念日でツェルマットでもお祭りと花火に出会えました。外国での花火を見るのも初めてでしたが、山間のあちこちから打ち上げられる花火はまた格別でした。花火は夜の12時まで続いていました。

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この日はツェルマットからゴルナグラート展望台3130mへ登山電車で。天気は快晴。マッターホルンやその他の山々、ゴルナー氷河もはっきり見えました。展望台からの下りは一駅分を歩いての下りでリッフェル湖に映る逆さマッターホルンをゲット。そしてマッターホルンにタッチの写真。

お昼はツェルマットに戻ってラクレット。午後は地下ケーブルとゴンドラを乗り継いでスネガへ。ここの地下ケーブルは黒部ダムの地下ケーブルと同じ様な感じですが、スピードは倍以上。ここでは簡単なハイキングで、今は、非常に数が減ってなかなか見れないエーデルワイスにご対面。終日マッターホルンの見えるいい天気で日焼けしてしまいました。この日もツェルマット泊。

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この日も朝焼けのマッターホルンが見える良い天気。朝食後すぐにツェルマットを出発。この日は乗り物を10回以上乗り換える移動。まずは電車でシュピーツまで。ここからトゥーン湖で船に。そしてこの船でのランチクルーズ。そしてインターラーケンから電車、バス、ゴンドラを乗り継いでシュルトホルン展望台2970mへ。ここは007の映画の舞台にもなった所とのこと。途中は結構な雨でしたが展望台に着く頃には雨もあがって雲が多いながらもアイガーやユングフラウも良く見えました。ここからゴンドラ、登山電車、地上ケーブルカー、そしてまた電車を乗り継いでミューレン経由グリンデルワルトへ。夕食はミートフォンデュでした。グリンデルワルト泊。

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登山電車でクライネシャイデック経由ユングフラウヨッホ展望台3545mへ。途中アイガー北壁に開けられた窓から絶景を鑑賞。アレッチ氷河もしっかり見えました。しかし展望台は霧、風速10m、気温1度と悪条件。なかなかずっとは好天は続きません。氷河の中に作られた氷の殿堂を見てから下山。何も見えなくて残念でしたが、雰囲気は味わえました。お昼は下りてからクライネシャイデックで。午後は登山電車とゴンドラでメンリッヘンへ移動後、そこからクライネシャイデックへのハイキング。アイガー北壁を見ながらお花畑を歩くいいコースです。この日は日差しも弱く、涼しくて快適でした。この日もグリンデルワルト泊。

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グリンデルワルトからはバスで国境を越えてフランスのシャモニーへ。この日は最高地点の展望台エギーユデミディ3842mに行く予定でしたが、本日から点検6週間で運休。アレー!でしたが、代わりにブレバン展望台2500mへ。結局、雲は取れずモンブランは見えませんでした。この稼ぎ時に運休して点検とはさすがフランス人とは感じました。代わりのブレバン展望台のブレバンは奥方の今は亡きお父さんのスキー製造会社の名前のブレバンの名前がここから来ていることが初めて分かったと奥方が喜んでいました。お父さんがシャモニーには行った事があることは知っていましたが、ここにブレバンという地名があることは知らなかったそうです。これはきっと天国のお父さんのお引き合わせだろうと思いました。この日はシャモニー泊。夕食はチーズフォンデュでした。

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シャモニーからバスでジュネーブへ。ここからミュンヘン経由で日本へと。ジュネーブ、ミュンヘン間は久々のプロペラ機でした。飛行機はシベリア経由のため殆ど日は暮れず、ちょっと沈んだ太陽がすぐに北から上がってきて次の日になりました。そして無事成田に到着。良かった、良かったと京成の電車に乗りましたが、乗ってしばらくしたら、あ!、スーツケースがない!、と気が付いて佐倉から成田空港に戻りました。幸運にもスーツケースはちゃんと駅のホームにありました。また、万歳です。ハプニングも多少ありましたが、最高の旅が楽しめました。

本当に行って良かった、行けて良かったのスイスアルプス展望旅行でした。またいつか行けることを願いつつ、紀行文を終わりとします。

御神様
04.5.28 うぇるふぇあ じゃぱん

 入会まもない方々の中には、もしかしたらわたくしの「御神様」という表現に馴染みのない方もいらっしゃるかも知れませんので老爺心でもないのですが簡単に説明をというわけです。えー、そんな難しいことでもないんですが。

これはつまり、一人の才媛たる女性が「山娘」から「山女」へ、「山女」から「山の神(←山姥ではない山姥は別のものである)」へという運動変化するについてのザッパな説明ですね。 山の古い方々はもうご存じですが、山の会に独身の女性がお入りになりますとこれはもう大変な騒ぎでして、ましてや少しでもカワイイところがありますと もう熊だか狼だかわからんようなオトコどもが下品な顔を精一杯とりつくろって「山のしらゆり娘♪」みたいな事をいっておだてたりするのですが、この段階がいわゆるタオヤカな「山娘」と呼ばれる時期になります。

 で、この娘さんもだんだんと会の雰囲気に馴染んできます。会の雰囲気というのは例えばワガオさん←仮名 のように、真面目な会議中に突然にとんでもない振動の放屁をなさるとかですね…あまりもの黄門様の激震に印籠まで出たんぢゃ…と心配しちゃうというシロモノですが、そういう非常識に馴れていつのまにかアタリマエのようになってきてしまうわけです。

 そういう感性であれば山のロマン(ロマンスではない)でもそうなわけで、静かな山で美味な珈琲をじっくりと飲む…本物の味を…そういう技の伝授でもそうなってきてしまいます。挽いた珈琲豆を煮出して頂くのが一番本当の味が分かるノダと教えているわけですが、教わる彼女が豆カスが沈まずに少し口に入ってイヤだと感想をいうと先輩は平気で「前歯で濾しながら飲めばいい」と教えるとかですね。ペッペと噴きちらしながら「やっぱイヤだ」と豆カスだらけの前歯でお互いの顔を見ながら大笑いするというそういう感性にですね、馴染んでくるわけです。段々と。 まさに認識論をジでいく話なのです。

 で、段々と会の雰囲気に馴染んできていわゆる「山の姉御」といってよろしいかと思うのですが、そういう別モノに変化発展してくるわけです。例えば、港のヨーコさん←仮名 のように「会の…」とか「事務所の…」とか、終いには「県連の…」ともなると「おい○○(呼び捨て)ナイフかせ」とかいって「はい…。(あれ?港のヨーコさん←仮名 も自分のナイフ持ってるのに…?)」と思いながらも差し出すと 港のヨーコさんは自分のナイフを大事そうにしまったかと思うといきなり○○のナイフを缶切り替わりに使ったり又はビール缶をまっぷたつに切って自分用の酒コップに加工し始めるというようになったりします。ただの独身で美人というのではすまなくなってきて「姉御」という存在感ですね、タフな雰囲気を強く帯びてこられるわけです。

 また、イデデさん←仮名 という大変な美人もいらっしゃったのですが、どのくらい美人かというと美人と聞けば思い浮かぶ、みどりなす黒髪・ひろくて形のよい額・月のような眉・長い睫毛と黒くて大きな濡れたような瞳・すらりとした鼻・ふっくらしているのに引き締まった紅をひいたような唇・ちょうど良い丸みを帯びた顎の線・絵に描いたような頬の輪郭・奇麗に揃った真っ白い歯をみせての笑みとか、ですね、全部そろっちゃってるようなウソのような美人ですね。そういう方もいらっしゃったのですが(そもそもどういうわけか我が会はムカシから美人ばかり入会するので錯山の会←仮名 の池田さんも悔しがっているという事実がある)彼女なんかはもしかしたらお酒を飲むために会に入られたのかしら と誤解されるような「姉御」でらっして、冬にテントでの酒盛りの時に大酒のみという噂のフグジ←仮名のダンナも負けたりします。いろいろあったりするうちに段々と事務所のオトコ達もたじろぐというか一目おく存在になってきたりするわけですね。

 このジムショの男達も一目置くようになったという時点でもう立派な「山女」といってもそう間違いではないといえましょう。(私は立派な女流登山者といっているのではない)こうしてこの会の女性達の多くは、わがままオトコ達の為に女性としても人間としても大きく成長せざるをえないハメになり、そしてその実力のままに「神様」にまでなられたというわけです。

 そのへんの事情に詳しい男達は、彼女たちを心の底から尊敬といいますか何といいますか「よりによってオレみたいなのと一緒になんかなって…すまない…」という気持ちがごっちゃまぜになって、いわゆる ただの「ウチのかみさん」などでは 到底すまなくなってくるわけで「うちの神さん」→「うちの神さま」→「御カミさん」→「御神さん」→「御神様」へというように神格化への道をたどるわけです。

ひとえにオトコ共の心構えひとつで「御神様」が「御御神」へと変身されるかもしれませんし、荒ぶれ神といいますか「大神様」を見くびってはならない・死ぬその時までココロからお仕えして恩返しをしなければと あらためてココロに誓ってなんだかわからないけど時間がきてしまったので、この辺で終えたいと思います。

 ご静読 ありがとう御座いました。

飯田線沿線案内(豊橋〜飯田)
04.5.14 島田賢治

新緑の飯田線に乗ってみたいと前々から思っていたのですが、先日、豊橋から飯田までの区間に乗りました。沿線の歴史や地理を車掌に代わって案内します。

前日まで出張で焼津にいたが、夕方豊橋に移動する。
翌朝、窓際の席を確保しようと早めに来てみると、自由席車両には10人程の乗客でちょっと拍子抜けである。「ワイドビュー伊那路1号」は9時6分に出発。昨日までの雨空が嘘のように晴れ上がり、気分も上々。なお、車内販売がないのでキオスクで弁当などを買ってから乗ること。

豊橋を出発して最初は豊川駅(稲荷で有名)で、次に本長篠駅で停車する。
長篠は飯田から三河に通じる別所街道の要衝であり、武田と徳川は長篠城をめぐって何度も戦っている。「長篠合戦・設楽(シタラ・ガ)原の戦い」で織田信長が馬防柵を築かせたという場所(連子川にそった水田)はこの駅の南西方向に4kmにある。
おさらいしておくと、天正3年(1575年)5月21日、織田信長3万・徳川家康8千の連合軍と武田勝頼1万5千が激突し、大敗を喫した武田勝頼は命からがら甲府に逃げ帰ったが、有力な家臣を失ったことで衰退し、滅亡に至っている。

この合戦では上田市ゆかりの真田家長男の真田信綱と次男昌輝は武田軍に従って戦ったが鉄砲玉が命中して戦死する。(この結果、三男の昌幸が真田家を継ぐことになる。その息子が真田幸村(信繁)である)
なお、信綱の首級は家臣白川兄弟が陣羽織に包んで持ち帰り、真田町の信綱寺に葬られている。当時、武将の首級は首実検後に敵方に送り返すのが習わしであった。寺には血のついた陣羽織が保存されているという。

話が飯田線から脱線(!)するが、鉄砲について。
当時の鉄砲は長さ130cmで結構長い。弾丸は鉛で、3〜4匁で13mm程度。また大鉄砲は27mmで、信長が武田軍本陣に向けて打ち込み、挑発するのに使ったそうだ。
火薬と弾丸の充填に時間がかかるので三段撃ちをしたとされているが、充填する者と射撃手を分業にしたという説もある。なお、3千挺ではなく本当は1千挺らしい。馬防柵は延長1km余りだから鉄砲1千挺×3段だと狭くて危ない。

鉄砲の値段は6匁銃で米9石(1350キロ)というから換算すると約67万円と高価であった。また、黒色火薬(硝石+硫黄+木炭)も輸入品で高価であったが、宇田川武久著「鉄砲伝来」によると1555年には毛利元就が、火薬原料の硝石を製造するために馬小屋の土を集めさせたという記録がある。馬の小便がなぜ爆発するかについては、小泉武夫著「食に知恵あり」に発酵の応用例として詳しく出ている。小便に含まれる尿素が土壌中の硝酸菌によって脱炭酸されてアンモニアになり、さらに酸化されて硝酸に変わり、草木灰(カリウムが多い)を加えて中和し、硝酸カリウムができる。これを漉したり煮詰めたりして硝石を作るとあるが、食塩分を分離する方法は書いてない。

先日、生島足島神社の御柱祭りで火縄銃(口径が大きいので大筒か?)の演武を初めて見た。本物の弾丸ではなく紙を詰めた空砲のせいか、発射音は鼓膜が痺れる程に大きかった。武田軍も鉄砲を使っているが、騎馬軍団といえども馬上から撃つことはなかっただろう。そんなことをすれば馬が吃驚して武者を振り落とし、何処かに行ってしまう。

旧暦5月21日(新暦7月9日)は梅雨の真っ最中で、当日は朝のうちだけ雨が降った。雨が降り続けば鉄砲隊には不都合で、戦の様相は変わっていたかも知れないが、2倍以上の軍勢をもつ織田・徳川連合軍勝利は確実らしい。
思い付きで書くのはここまでにしておこう。それこそ「無鉄砲」というものだ。

湯谷(ユヤ)温泉駅から数kmにわたり澄んだ宇連川と線路が並行している。ここが鳳来峡で、川底が岩石でなく青緑色の一枚岩(石と違って転がらないから苔が生えやすい?)で、板を敷いたように見える。川岸に河原はないが木陰が豊富で、渓流釣りや川遊びの人で賑わうそうだ。上田からだとちょっと遠い。

豊川水系から離れ、天竜川の支流大千瀬川沿いに下って行くと、佐久間ダムの最寄り駅となる中部天竜駅である。駅名の読みは「ちゅーぶ」であるが、由来は「中部/なかっぺ」村だそうである。この中部天竜駅には佐久間レールパークがあり、JRの乗車券で入場できる。土日祝日と春休み、夏休みなどにオープンしている。

天竜川の電源開発のために飯田線(旧三信鉄道:天竜峡駅〜三河川合駅)開通が待たれていたが、当時あまりの険しさに測量作業すら進まない状況であった。そこで、北海道の鉄道建設で名を馳せたアイヌ人の川村カ子トという超人的な測量技師の率いるチームが呼ばれ、大正15年より4年間かけて測量を成し遂げている。
全線開通は昭和12年で、超ローカル線ではあるが電化されていて快適である。

車窓からダム堰堤(高さ156m)は見えないが、佐久間発電所から勢いよく吐き出される水が見えた。佐久間ダムは昭和28年に着工し、3年4ヶ月で完成した。飯田線があったので工事がスムーズに進んだのであろう。工事を請け負ったのは間(ハザマ)組でその後黒部第四ダムも受注・完成させている。

トンネルを通り抜けて秋葉街道(国道152号線)沿いの水窪(ミサクボ)駅で停車する。小さな町だがこの辺りでは大きい町なのだろう。官庁関係や病院、学校などがあるようだ。再びトンネルをくぐって天竜川沿いにもどると佐久間(ダム)湖である。堰堤の長さと高さから傾斜角度を計算して見ると平岡ダムは31度、佐久間ダムは52度である。佐久間ダム付近の険しさは天竜川でも別格であることが分かる。
大嵐(オオゾレ)、小和田(コワダ)、中井侍という飯田線ファンの間で聖地扱いの無人駅には勿論停まらない。駅が断崖絶壁にあるといえば大袈裟だが、人家なし車道なしである。開通当初は低い場所を通っていたが集落は佐久間ダムで水没・移転し、線路も水窪経由につけ替えられたそうだ。

佐久間湖の上流に平岡ダム(昭和15年着工、27年竣工)がある。建設当時は在日中国人労働者が相当数働いていた。また、犠牲者も多かったようで、数年前に慰霊祭が行われている。熊谷組は、戦争末期に松代大本営建設工事(一部の工区)を請け負っているが、そこでも朝鮮人労働者虐待や賃金不払いの問題を起こしている。

平岡駅は平成13年に完成した鉄筋4階建ての「ふれあいステーション龍泉閣」の1階部分で、4階には「龍泉の湯」入浴料500円がある。宿泊や宴会も出来るようだが、民宿に泊まって地元の人から話でも聞いた方が良いとおもう。

続いて門島駅から泰阜(ヤスオカ)ダムは近いが、ここも堰堤は見えなかった(と思う)。
田中県知事が泰阜村長宅を下宿先として住民票を移したことに長野市長がケチをつけ、詰まらない争い事を始めたので有名になったがここも過疎の村である。
泰阜村からでも公共交通機関で県庁に通えると言い張っていたが、高速バス通勤が辛かった(朝まだ暗いうち出ないと間に合わない)らしく、今朝の新聞では塩尻に知事分室を設けたとある。逆に部局長が長野から塩尻に通うことになるらしい。

新緑ということは広葉樹が多いということである。紅葉の時期もまた美しいはずだ。
細長いダム湖の中間に唐傘という駅があり、ここが天竜ライン下りの終点である。昨日の雨のせいか、あちこちでやっている浚渫(砂利・砂採取)のためかセメントを溶かしたような灰青色の湖面で舟遊びのお客さんには気の毒なほどであった。(河川、湖沼を濁らせている土砂の微粒子は負に帯電して反発しあうので沈降せず、いつまで待っても透明にならない)

天竜川の源流は諏訪湖である。釜口水門で見るとかなり濁っている(上田市あたりの千曲川より汚い)が、天竜川の左右から注ぐ水源は南アルプスと中央アルプスである。きれいな水で薄められて飯田辺りではきれいになるはずだと思うのだが。
天竜川下りの観光パンフレットの青い透き通った水は本当か?南アルプスに余計な林道を造って山肌を傷つけたから土砂の流出が止まらないのではないか?

天竜川下りは、松川の合流点の弁天港から時又港経由で天竜峡温泉港まで下る「天竜舟下り」と、天竜峡温泉港から泰阜ダム湖の唐笠港までの「天竜ライン下り」がある。
去年の5月、川下りの舟が転覆して京都の中学生たちが川に投げ出された事故は「舟下り」の方である。天竜下れば「しぶき」ではなく、「冷や汗」で濡れるようだ。
天竜川は、いつも濁っていて川底(暗礁)が見えないために危険性が高い、とカヌーのホームページでも指摘されている。

天竜峡駅で乗客が半分ほど降りていった。ここまで来ると谷が一挙に広がって開放感がある。少し先の河原は広い駐車場になっているが、舟下りのお客さん用であろうか。
線路は飯田市街に向かって直進せず、住宅地のなかを左にカーブしている。松川が西から注いでいて広く深い谷になっているので等高線状に迂回するのである。大きくU字状に遠回りする各駅停車の電車より近道を走ったほうが早いという話を聞くが、早合点をして下車してはならない。松川の橋を渡ってから市街地まで坂道が続くので後悔するはずだ。

飯田駅着11時33分着。長野県庁行きの高速バスに乗り替えるためにバスセンターまで15分ほどガラガラを曳いて行ったが、緩い下り坂だし爽やかな風が吹いていて気分良かった。20年程前に喜久水酒造にろ過機を売り込みに来たことを思い出す。
飯田の市街地は、昭和22年4月の大火によって3/4が灰になったという。防火帯を兼ねた広い道路の緑地帯に昭和28年に飯田東中学校の生徒が植え、今も守り育てているという「飯田りんご並木」は美しい公園になっている。古い樹は少なく、「陽光」や「シナノスイート」という最近の品種があった。果樹栽培が盛んな地域なので指導する人(卒業生か?)も多いだろう。

飯田線は残念ながら天竜川の濁りによって魅力が半減している、と厳しいことを言わざるを得ない。ろ過機屋の習性か、濁っている水を見ると無性に腹が立つのである。
おしまい

我々田引水考(依田川の水を塩田平へ)
           2004.3.18 島田賢治

夫神岳と独鈷山で囲まれた盆地が塩田平である。その夫神岳という山名は雨乞いを意味する難しい漢字(雨冠の下に口を3ツ書き、その下に龍を書いてオカミと読む。口々に龍に乗って雨を乞う)に由来している。

1.塩田平と溜め池
降水量の少ない東信地域の中でも一段と少ない塩田平は田用水を100カ所以上の溜め池に頼ってきた。溜め池の築造に必要な良質の粘土があるので瓦を焼く工場もあった。
春の代掻きから始まって秋の稲刈りまでに必要な水は溜め池3杯分という。雨の少ない年は周囲の山から出てくる水も少なく、溜め池の水がどんどん減って行く。
地形的に風水害の心配はないので、台風でも雷でも雨さえ降ってくれれば歓迎という土地柄である。

干魃になると乾燥して土がひび割れ「黒乾」、ついには表面が白くなってしまう「白乾」。出穂前後の重要な時期に白乾状態が何日も続けば被害は避けられない。溜め池の水量が少なくなった時は、収穫皆無という最悪の事態を避けるために「犠牲田」を設定する場合もあるという。

2.雨乞い神事
「岳の幟(タケノノボリ)」は別所温泉の初夏の風物詩である。これは7月15日に近い日曜日に毎年行われているもので、住民が夫神岳(オガミダケ 1,250m)頂上の九頭龍権現に豊作を祈願した後、笹葉が付いた青竹に反物を飾りつけた色とりどりの幟を押し立てながら山から下りてきて、名刹常楽寺近くの別所神社まで別所地区を巡る華やかな神事である。

1998年長野冬季オリンピックの閉会式で披露されたが、瑞々しい初夏の風景の中でないと鮮やかな幟もさっぱり映えないので、実物を知っている人は違和感を感じたと思う。
女子児童がささらという竹製の楽器を鳴らしながら踊る「ささら踊り」と若手による「三頭(ミカシラ)獅子」も披露・奉納される。
「三頭獅子」という獅子舞は、雄2頭が雌1頭を巡って争う三角関係を現していて何とも現実的であるが、見ぐさい争い事を見せられた九頭龍権現が怒って雨を降らせ、そのお礼として九頭龍権現に色鮮やかな反物を奉納するという仕組みである。

現代でも旱魃の時は千駄焚き(百八手)という雨乞いを行う。最近では平成6年に塩田平の全ての溜め池で行なわれ、幻想的な光景であったという。
雨乞い民俗風習の研究者や水源森林保護活動家が全国から集まって、第1回オカミサミットが平成9年8月に開催された際には山田池、舌喰池、塩野池の3カ所で行われた。
記録ビデオを見ると長さ3mほどの青竹を軸にして、直径30cm長さ150cmほどに麦藁を束ねて大きな松明を作り、日が暮れてから堰堤の上で一斉に火を付け「雨降らせたんまいな〜」と唱えるのである。

塩田平は国宝・重文指定の古寺や温泉のある観光地でもある。観光用として毎年千駄焚きを行なってみたらどうだろうか。
別所温泉に近い山田池か悲しい人柱伝説の舌喰池を会場にして、蛍が飛び交う時期(6月頃)に合わせ、観光客にも小振りの麦藁松明を持って参加してもらおうという企画である。

隣の青木村で平成13年7月に第5回オカミサミットが開催された際に、「しなり幟」という夫神集落に伝わっている神事が56年ぶりに披露された。
これも夫神岳頂上の祠に豊作祈願し、幟を立てて山を下り、「ささら踊り」「三頭獅子」を奉納するというものである。

3.旱魃の対策
大明神岳や独鈷(トッコ)山を水源とし、塩田平を縦断する産川の上流部に昭和13年6月大型の農業用水ダム沢山(サヤマ)池が完成した。これによって西塩田や中塩田は干魃の不安がなくなったが、ダムから遠い富士山村や東塩田村は恩恵に浴することなく取り残されてしまった。

二ツ木峠の向こうは依田村(昭和30年丸子町に編入)である。この村の幹線水路である御岳堂堰(ミタケドウセンゲ 堰は用水路のこと)は二ツ木峠のすぐ近くを流れている。
峠との標高差はたったの約35m(地図ソフトのカシミール3Dで推定)である。慢性水不足の富士山村や東塩田村は、峠の向こうの水が欲しいと先祖代々思い続けてきた。

資料によると、正徳三年(1713年)の「依田川・内村川より塩田江新堰目論見仕立帳」に今日の導水ルートと同じ構想があったという。実現しなかった理由は上田小県近現代史研究会の「堰をあるく 千曲川左岸編」に出ているが、塩田側の土地買収ができなかったこと、技術・費用の困難さ、丸子側が幕府直轄領のためとなっている。

江戸時代前期に干魃対策として溜め池の築造が盛んに行われ、上田藩も援助している。上田藩6万石の半分は塩田平で生産していたので当然である。
明治時代になれば土木技術(削岩機や発破)が進歩しているから二ツ木峠に隧道を開削するのは難しくなく、内村川から取水し御岳堂堰を経由して塩田平への導水ならば実現しても不思議ではないのだが、岩谷堂の「依田川左岸水利事業発祥記念碑」に「御岳堂堰の水量が十分ではなく生活用水にも困って…」とあるように、内村川の水量に余裕がないので水利権の調整以前の状態であった。(現在は、山の樹木が茂り、ダムもあるので想像できない)
驚くことに依田川本流の腰越から引水して御岳堂堰の水量を補強する工事が江戸時代に行われ、内村川に架けた水橋が流失する文政六、七年(1823,4年)まで20年間使われたという記録がある。しかし、この水が二ツ木峠を越えることはなかった。
丸子公園内の安良居神社の裏手に隧道を掘った跡があるという。

依田川導水事業に関して「富士山村の歴史」や「依田川沿岸土地改良史」から引用し、関連事項を補足する。
大正13年 異常旱魃で収穫皆無となり、大打撃を受けた。これがきっかけになり、依田川導水論が下之郷で再燃する。
昭和5年 昭和農村恐慌起こる。アメリカ輸出の生糸が暴落したので桑畑を水田に戻すこともあった。丸子町の生糸産業も壊滅的打撃を受けた。
昭和9年月 沢山池築造工事着工 昭和13年完成。
昭和15年10月 御岳堂堰と北の入池を測量した結果、導水は可能との結論となった。
昭和15年12月 十数回の話合いの結果、依田川導入期成同盟会が富士山、東塩田、依田村の関係者によって設立された。
昭和16年6月 食料増産応急施設としてポンプ揚水設備が南原地区に完成。依田村の厚意による協定を結び御岳堂堰より引水し、40馬力のポンプで久保峠(二ツ木峠の横)までの距離620mを押し上げる。北の入池、水沢池、浅間池、新池に導水した。
(補足:ポンプは旧官営富岡製糸場(当時は片倉工業)の廃品。よく探したものだが、丸子は製糸の町なので伝手があったのかも知れない。また、分解修理は丸子町の綿谷製作所が行ったと想像する、と楽しい)
昭和16年12月大東亜戦争を始める。(「太平洋戦争」は戦後の呼び方)
昭和17年8月 依田川の水を岩谷堂下に設置した25馬力のポンプで御岳堂堰に導入し、依田川本流の水が塩田平に送られた。
昭和18年7月 異常旱魃に見舞われる。応急揚水施設が完了、8月14日通水式。3箇(1箇=1尺立方/秒=100トン/時間)余の水が二ツ木峠を越えて塩田に流れることになった。
昭和18年7月22日 二ツ木峠隧道工事着工。
昭和20年8月 異常旱魃で御岳堂と飯沼との間に紛争が発生し、塩田への導水不能になる。上田警察署長、丸子警察署長、耕地課長が中に入り、交渉の結果合意に至る。合意内容として、塩田地区の揚水関係者は二ツ木峠以東には入らぬこと、塩田地区への導水は夜間たることなどとある。(干魃時のイライラした雰囲気が伝わってくる)
昭和20年8月ポツダム宣言受諾 終戦。
昭和21年6月 岩谷堂(恒久)揚水機場地鎮祭。工事に関する経費の負担割合は富士山・東塩田側が「2/3」、依田村が「1/3」とする。番人費、電力料などの費用は、使用割合で按分する。
昭和21年8月 依田川本流を御岳堂堰に揚げる揚水ポンプ設備が完成。
昭和22年5月 920mの隧道完成。(隧道は幅120cm、高さ150cm)
昭和23年 依田川飛魚地籍に頭首工完成。引き続き依田川左岸水路工事。
昭和30年5月 依田川左岸水路完成により岩谷堂下の揚水ポンプ設備不要となり撤去。(以上で引用を終了する)
(注:峠を越えて送水するポンプは2度完成し、依田川本流から揚げるポンプも2度完成したようになっているが詳細は不明)
本題から少し外れるが、用水路の取水口(頭首工)には、計画取水量が表示されていて、単位は0.001m3/秒である。歴史的な経緯があるために細かい数字までこだわっているが、流量測定装置は一切見当たらない。

4.陳情と交渉
峰村嘉孝(明治31年生れ昭和45年永眠)は後に村長になるが、当時は一人の農民であった。彼が東塩田耕地整理組合を立ち上げ、下之郷の淵田永盛(栄盛)とともに運動に乗り出したのである。
頻繁に県庁に陳情に通うのだが、事前に関係先の了解を取り付けておくことが必要である。依田村の御岳堂堰の下流地区では当然反対で、驚くことに依田川本流から水を揚げていて不足するとは思えない長瀬村も反対したという。

水利権というものは国境のように厳しいもので、たとえ僅かであろうと同じ水系であれば敏感に反応するのである。
話がそれるが、灌漑に使われている小河川と堰が交差する部分は水利権の関係が現れていて興味深い。合流した後で分水する相互融通タイプ(交差点下流に水田が少ない)、漏れたり水を盗まれるのを警戒して水門のない水橋で河川をまたぐ、サイフォンと称して川底にコンクリート製の配管を埋設するものなどがある。

依田村との交渉は極めて困難であったが、最後には「同志的な賛同」を得た。村民を干魃の苦しみから救いたいという一念で必死の説得をしたのであろう。また、戦争突入前夜の食糧増産気運も後押ししたに違いないが、彼もその使命感に燃えていた。

当時、御岳堂堰で潅漑している水田は約96haだが、富士山・東塩田の耕作面積は3倍もあるから、話を持ちかけられた御岳堂区長田村喜一郎は最初困惑したと思う。
昭和16年より御岳堂堰からポンプで峠を越えて送っているが、まだ依田川本流の水は堰に入っていない。17年になってから本流よりポンプで揚水し、流量を増やすことができたことは前述した。そして、この依田川導水事業が契機となり依田川右岸・左岸全域の農業水利近代化事業に発展するのである。

5.農業水利事業とコスト
平成16年度から始まる二ツ木隧道補修工事の予算は約8億円である。
補修工事でこれだけかかるから、隧道と前後の水路開削には当時でも相当な金額がかかったはずだ。戦中、戦後の混乱期であったから県の予算を獲得するのは大変であったろう。

別の視点から見てみよう。今回の補修工事には、国が4億円、県が2億円、上田市が1億円を負担するので合計7億円の税金が投入される。なお、受益者負担は1haあたり35万円である。
7億円を30年で償却、285haの水田(減反や耕作放棄をゼロと仮定)、1ha当たりの収穫量を玄米600kg、精米歩合を90%として計算すると、東塩田産の白米1kgには150円の税金が投入されている。
また、中塩田地区では六カ村堰経由で千曲川の水を各溜め池に配水する工事が完工したが、ここに45億円かかった。中塩田産の米1kgには200円の税金が投入されている。
お米は一粒も無駄にしてはいけないし、折角の税金が生きるように田圃を草にしないようお願いしたい。

5.あとがき
妻の実家の新年会で、依田川導水事業を話題にしたら「峰村さんの奥さんはこの家から嫁いだ人で、陳情で忙しいからと頼まれて私も田圃の手伝いに行った。西丸子線の馬場(バッパ)という駅で降りて…」と話が続いた。そこで「黒乾」、「白乾」という単語を初めて聞いた。
峰村嘉孝翁の顕彰碑があるというので行ってみると、二ツ木峠が目の前に見え、当時の非力な電車でも上れる(頂上に短いトンネル)程の低い峠であった。

「干魃の本場」中塩田の叔母は、「黒乾」「白乾」という単語を聞いたことがないという。中塩田は沢山池ができてから水の心配がなくなり、この農業専門用語は使われなくなったようである。
なお、この叔母が制作(撮影+編集)した「岳の幟」「百八手」「沢山池」などの記録ビデオを見せてもらった。

私事が続いて恐縮だが、義母の名は「てる子」といい、大正13年9月浦里村当郷(町村合併の際に当郷だけが青木村の一部となる)生まれで、歴史的な旱魃を記念した命名である。
大正8年世界大戦終結によって不況に突入する。そこへ大正12年関東大震災、大正13年大干魃、昭和2年金融恐慌、昭和5年春繭の暴落、昭和6年米価暴落(豊作飢饉)と農村は続けざまに打撃を受けて困窮した。
農村経済更生運動が全国的に展開されたが、浦里村では昭和11年に「塩之入池」の築造工事が始まり、14年に完成している。土木作業者として村人の働き口を確保し、干害対策と同時に農民の左傾化対策も行うという巧妙な作戦であった。

宮下周村長の指導のもと村民が一致団結して再建に取り組む様子が松竹映画「立ち上がる村」として映画化されたり、中学校の修身の教科書で取り上げられ、浦里村は「更生村」として有名になった。昭和15年に朝香宮やドイツからヒットラー・ユーゲント(青年隊)が視察に訪れている。義母はユーゲントがナチス式の腕を上げる敬礼をしたことを覚えているそうだ。

歓迎式典の会場となった浦里小学校の校門前に宮下周(ワタル)村長の顕彰碑がある。(現在は上田市立浦里小学校。川西小学校と統合する計画あり)
学校前を流れる小さな堰には六分四分の分水があり六分の水は学校敷地に入り、浅い堰で危険はなさそうだが、何と木造校舎の床下を開渠のまま横断して裏手の田圃に流れて行く。児童達は水と農業の深い関係を直接学んでいるに違いない。
 おわり

  大屋刎橋(はねばし)の研究  

2003.4.7

           島田賢治

千曲川は、甲州・武州・信州の国境にある甲武信ケ岳を源流とし、佐久、小諸、上田(大屋)、長野、飯山と流れ下って日本海に注ぐ日本一の川である。

刎橋とは両岸から突き出した刎ね木で橋桁を支える特殊な木造橋である。ゴッホが描いた「はね橋」とは全く違う。

広辞苑で「はねばし」を引いてみると、刎ね橋、跳ね橋、撥ね橋、桔ね橋が全て同じ意味となっており、城門などで不必要なときは綱で吊り上げておく橋となっている。

新村出さんは土木技術に興味なかったようだ。

「刎ねる」を引いてみると、先を勢い良くあげる、払いあげる、という意味が出ている。猿橋では「刎ね木」を「桔ね木」と称している。

千曲川を大屋橋の上から眺めてみよう。上流の方に目を向けると橋の手前で流心が急カーブしている。まるで、反りの強い刀で大屋の住民を脅迫しているようだ。

当然、右岸には城壁のような護岸があり、水の勢いを減殺する仕掛けも見える。左岸(丸子町石井)の堤防は低く、河原にグランドがある。

下流に目を転ずると、大石橋の架け替え工事中である。1918年に大屋と石井の間に架けられた丸子電鉄(現在は上田交通)の鉄道橋で、廃線により道路橋に転用され重宝されていたが、2年前の台風15号で崩壊してしまった。大屋側の橋が足元をすくわれ(洗掘作用)、鋼鉄とコンクリートの橋が水に負けたのである。台風15号による水害の象徴としてテレビ、雑誌などで取り上げられた。

今年1月の早朝、自治会の資源ゴミ回収の当番で詰めていたときに「神川(かんがわ)村略誌」という本を拾った。まさに資源回収である。

略誌を読んでみると浅間山噴火、冷害、旱魃、積雪八尺(!)という災害の記述が続く。千曲川沿いであるから水害は特に多く、川の恵みよりも災いを多く受けた地域である。興味をもったのは山辺忠七という人物が大屋橋架橋に執念を燃やした件であった。

(山辺忠七は忠助の長男、文化八年生まれ。身体肥大にして温情濃やかで衆人に慕われたとある。魚屋を営み、家業すこぶる繁栄を極めたが、生活は質素であった。ひ孫が現在の当主である)

以下、長くなるが神川村略誌から書き写すと、

元禄二年(1689年) 大屋橋を架けるため関係の村に人夫割をする。

[昔の大屋橋] 旧来架するに土橋を以てす。その構造松丸太をもって枠を組み河中に入れ位置を定めて其上に桁木を渡し中に鳥居形に枠を入れ桁上に長さ六尺経二寸程の細木を排列しその上に藁にて編める厚菰を敷並べ更に厚さ四,五寸に土砂を覆いたるものなり。

彼方より馬渡り来るあれば此方にて其渡り終るを待ち然る後渡るにあらざれば渡る能はず。斯くして一馬往きて一馬還り綿々として絶えず。而してこの橋毎期雪解けの出水、夏期降雨の増水には例外なく流失す。大屋橋の前身は渡渉から始まって土橋、渡舟、刎橋、つり橋、舟橋、木橋、鉄骨橋と幾変せんを重ねて今日に至ったことか(富岡鉄志ノート)

安政元年(1854年) 大屋橋組合村できる。大屋橋は粗造な土橋で洪水の度に流失するので、下深井、岩下、大屋、栗林、下吉田、本海野、林之郷の村々が橋組合を組織して流失の度毎に各村の庄屋が架橋するようにした。

然し余り頻々と流失するので堀村の山辺忠七(名儀人山辺忠助)が立上り活動を開始した。

慶応元年五月(1865年) 大屋橋「定(じょう)橋」無尽連名帳。山辺忠七大屋橋架橋について専ら寄付募集に従事す。然し寄付はするが橋を見てから、という者が多く、忠七は二百両(注:1,680万円 算出根拠は後述)の無尽講を立て、この引当として自分の畑八百坪と田一斗四升蒔千四百坪を書き入れた。(花岡百樹)

慶応元年八月十五日 大屋木橋「定橋」竣工。工事費三百三十四両一歩一貫四百三十匁とある。(注:2,800万円)

同年八月十八日 大屋橋木橋出来栄御見分、上田藩より村瀬、西山が出役して検分し、渡初式は時節柄余り仰山な振舞は遠慮せよ、と言残して帰ったが、大屋初め地元の関係者の意気は大変なものがあった。

同年八月十九日 大屋橋の木橋渡り初め。八月十九日渡橋往来安全の碑を建て橋供養を行う。(以下省略するが、極めて盛大な式典が挙行された)

同年十二月 大屋木橋「定橋」について褒美を受く。大屋橋はその後支障無く人馬往来安全となったので藩からお呼び出しがあり関係者に御褒美を下された。(以下詳細な内容が続くが省略)

慶応二年(1866年)五月 忠七が苦心して架けた大屋木橋「定橋」も僅か一年足らずで洪水で押し流されてしまった。山辺忠七、再び架橋に着手する。自分の信念に屈せず(ママ)再度二百両の無尽講を発起して架橋の資手に充てた。

同年9月 大屋に渡舟できる。定橋流失の後で往来することになった。大屋は当時五十余戸の部落であったが、船番四人、銭番一人を毎日交代で勤めた。

(注:当時の渡し舟は想像以上に大きく馬を6頭載せることができる。両岸に張り渡した綱を引いて向こう岸に渡る。秋に水量が減ると、舟底がついてしまうので堤を作って水を湛えた)

同年十二月 大屋刎橋架橋に決意。

山辺忠七が苦心して架けた定橋も洪水に流されてしまった。不屈不撓の精神の持主である忠七はこの位の事で挫折するような男ではなかった。その上性任侠に富んで他人の面倒をよく見たり公の問題として交通上の支障を根絶しようとの信条から再び身を挺してよりよい橋を企てる荘図に出たのである。

橋は脚のあるものではどうしても洪水に堪えることは出来ない。橋脚の無い橋を架けるより外に方法は無いと考へた。それにしては信州には橋大工の適任者が無いので越中の橋大工を頼むことにした。如何なる関係で越中の大工を呼ぶことをしたかを考へるに。天明八年、太田蜀山という人の書いた「北陸道名勝画図」という本の序文に越中黒部川に相木橋という刎橋の図があるのを見て、越中には既に橋脚の無い橋のある事を知り、その説明書に読み入った。(注:相木橋とあるのは愛本橋の誤り)

面白い事に、この工事の大工の伝えにて「橋桁は夜中に一人して架けるなり」云々とある。これに依ると、刎橋は科学的に修得したものではなく、体験で習得した大工があって、その大工が架橋法を秘伝として居るものと忠七は考えた。そこで忠七は越中まで出かけその大工を尋ねて頼んだ。忠七は河巾の狭い所を選び前の橋から五十間程上がった仁王淵へ架けることに意を決した

刎(はね)橋の設計

全長二十四間二尺(43.8m)、中央部の桁長八間四尺(15.6m)、刎出両岸より八間(14.4m)、巾一間四尺(3m)、石井側取付八間二尺(15.2m)

橋大工 越中礪波郡丹野新村 沖田与五兵衛、藤森吉平

架橋迄人足三千三百三十人程

賃料一人付銀五匁、飯料九合、味噌五十匁づつ。
棟梁大工五人、畔鍬(注:くろくわ・土木作業者)七・八人

右(上)の人数は国元より同道する、其余の人足は米払底に付雇入間に合わせる可事。

見積りはざっと四百両程度である。(花岡百樹)

(注:人足3,330人ということは大工と畔鍬合わせて13人が260日間という意味

慶応三年二月 山辺忠七、大屋の刎橋にいよいよ着工す。

同年五月二日 仁王淵から仁王尊現る。山辺忠七架橋工事中に仁王淵の河底から仁王尊を掘出す。縁起が良いと大いに志気揚がる。仁王尊出現の奇瑞と地名を取って「仁王橋」と名付けることにした。昔ここに石の仁王尊があったが、洪水で地盤が欠けて河底に落ちた。その後人呼んで仁王渕と言っていた。

(注:大屋駅前の東150m先の角から右に曲がると護岸の上に仁王堂があり、大きな石造りの仁王尊が祭られている。

刎橋の位置は、上田市博物館に寄託された絵図に笠石川(かさしがわ)の小さな橋が左上に描かれているので、現在の大屋橋から250m上流であることが分かった。後に、小県郡史にも海野新田御堂沢より西方およそ20間ほどとあった。笠石川に架かっているのが御堂沢橋である)

同年六月二十一日 刎橋桁木渡の祝。この日の祝儀帳には総額二拾両三分二朱(165万円)の祝儀が計上されており、地元民の期待の大きさを物語っている。

同年九月十日 刎橋完成して渡り初め案内状を発送する。

同年九月十七日 刎橋御見分。藩から刎橋出来栄検分役として川除奉行検分した。 

同年九月二十一日 刎橋渡初め当日橋墜落大惨事起こる。九月二十一日は暦の上では吉日、この日を選んで渡り初めの日とした。村中朝からお祭り気分で対岸の石井河原に長瀬村の若者達で寄進した相撲があって賑わいを呈していた。(中略)

渡り初め式が済んで正午か一時頃だと思う。ドドドンという大砲を打つような響がしたかと思うと、けたたましい人の泣き叫ぶ声が聞こえた。橋の方を見ると橋の中央が折れて橋桁え人がぶら下がっている。折口から箕でものをあける様に人が川の中へ雪崩落ちている。其刹那は怖いとも何とも言いようのない気持ちだった。後ろから押されて川へ落ちる人達の叫び声は何ともたとえ様のない騒ぎでした。

後方の群集は何が起ったのか少しも知らず前へ前へと押掛けて来る、警護の足軽どもは六尺棒を振って制止している。中には侍が刀を抜いて振り回しているのも見えました。この騒ぎが石井の相撲場へ聞こえたとみえ裸の力士達が駆け付けてきて川の中に飛び込み溺れている者を救上げているのがよく見えました。(以下略)。

怪我人は多勢であったが、救上げの効があって死亡者は僅か三人で済んだ。

山辺忠七は失望と責任を感じ興奮の余り仁王渕へ投身しようとしたが、辺りの人に阻まれて果たさず、その場から直ちに竜洞院に駆け込み、社会に対する謝罪と死者の霊を弔うために智雪和尚の徒弟となり、法名を大忠と名乗って剃髪し仏門に入って謹慎した。その殊勝な行為に却って世の同情を惹いた。(以下略)

この落橋について社会の反響は狂歌となって現れた。

「長瀬から大屋にかけし刎橋は 落つるものとは知るまじものを」ほか多数。

「上田大屋橋落ちくどき」という瓦版が江戸で出た程であり、「大屋刎橋鬼より怖い」とか「大屋の人食い橋」などという言葉が明治の中期まで人の口に残っていた。

明治七年(1874年) 大屋に舟橋ができる。長さ六十間(108m)、巾一丈、舟十七隻。出水には取り外すので通行人は大いに困った。

世人の交通便益を図り私財を投じて架橋の大事業に二度も命を投じ失敗に終った忠七の人生は寔に気の毒であった。忠七はそのとき五十七才であったが明治十二年六十九才でこの世を歿した。

明治二十一年十二月(1889年) 信越線開通(直江津−軽井沢間)。この頃、大屋には駅がないので、となりの田中駅まで歩いていった。

明治二十六年四月(1893年) 碓井トンネル開通(当初は蒸気機関車のアプト式。その後電気機関車に切り替わる。横川の鉄道文化村に資料あり)

同年五月 大屋橋開通。長さ七十五間(135m)、巾二間(3.6m)の永久橋が架けられた。

明治二十九年一月(1896年) 大屋駅開場

同年七月 大屋橋流失多数の死者を出す。県費で架けた木製永久橋も未曾有の大洪水に護岸工事の石積や橋台が不完全であったため大屋側の橋脚が崩壊して一部流失した。この時洪水を見に来て橋の上に居た数十人の人が橋もろとも流されて多数の死者を出した。

(神川村略誌からの引用は終了。一部は「年表で見る大屋の歴史」、「小県郡史」から補足した。花岡百樹は1877年生まれ上田の人)

当時の気候は江戸中期より小氷河期に入り、大雨や冷害が頻発し、千曲川も暴れ放題であった。(平常時より5m程水位が上がることが時々ある)

時代背景として、安政五年(1858年)には上田藩塩尻の生糸が横浜から輸出されている。時勢に乗り地域を発展させるには大屋の千曲川渡河を何とかしなければならない、という気運がみなぎっていた。

大屋のすぐ下で美ヶ原・霧ケ峰に源を発する依田川が左岸から、菅平高原から流れてくる神川が右岸から流れ込むから上田に比べると大屋は川幅が狭い。

本題から外れてしまうが、しなの鉄道大屋駅(もとJR信越線)は国内初の民間請願駅である。明治21年に線路は通じたが、大屋に停車場はなかった。地元から諏訪・伊那まで署名を集めて鉄道局へ大屋停車場の請願書を提出したという。駅前の2本の桜の間にある碑に詳しい。

大胆にインフラ建設を進める気風は旧神川村から東部町にかけて濃厚で、高速道路でも東部町(上田市大屋地区の東隣)は小諸インターと上田菅平インターの中間に東部湯ノ丸インターを誘致している。この区間は妙にインターの距離が短い。

刎橋としては山梨県大月市の桂川に架かる猿橋が現存し、日本三奇橋のひとつとして知られている。日本三奇橋は、岩国の「錦帯橋」(木造連続アーチ橋)、甲斐の「猿橋」(刎橋)のふたつは定番であるが、ここに「木曾の桟(かけはし)」、黒部の「愛本橋」、徳島県西祖谷村の「祖谷のかずら橋」が交代で参加する。

愛本橋は加賀藩により寛文2年(1662年)に初代が架けられ、その後は20年ないし30年毎に架け替えられていたが、文久3年(1863年)の架け替えが最後である。大屋の刎橋は、富山県黒部川の「愛本橋」を架けた大工たちによって建設された。

仁王橋、愛本橋および猿橋を比較しながらプロジェクトリーダーについて考えてみたい。困難な仕事に取り組んだ先人を結果論的に批評するかたちになっている。

(1)     調査と計画

棟梁大工は越中礪波郡の人とあるので現在の富山県砺波市である。忠七はプロジェクトリーダーとして愛本橋の調査と橋大工との交渉という重要な任務を帯び、すぐにでも着工したいと思いながら北陸道を急いだ。

上田から愛本橋まで200kmあるが、5日目には愛本橋を渡った。時期は正月明けであろう。

雪の黒部峡谷に架かる世界遺産級の橋に感動し、余りの高さと眼下の青く、白波も立てずに流れる水の速さで脚が震えた(黒部川は凄みのある流れ方をするので気味が悪い)。

明治期に撮影された写真を見ると狭い河原があり、ここに架け替え後に残った枕梁が立っている。

技術、材料の進歩によって橋の型式は変化する。その結果を知っている我々の目で見ると、刎橋は旧式の技術に属するが、設計・施工面では経験が豊富で安定しているとも言える。

当時は国内各地に刎ね橋があったようだ。越中の橋大工が、各地に出張していたのであろう。技術的に完成しているとはいっても「秘伝」とか「流派」などで合理性を欠く部分もあっただろう。

「プロジェクトへの情熱と技術的裏付けに対する冷静な判断の両立」こそが彼の果たすべき役割であった。これを一人で遂行しようとしたかどうか。

ひとつの方法として、助言を得るために前回架橋したときの棟梁大工を同行させたかどうかである。しかし、越中の橋大工の気分を害することも確実で、気の弱い人間は躊躇する。

ここは、重要な部分に思えたので忠七の曾孫にあたる山辺さん宅に伺ってお聞きしたところ、記録はないが一人で富山に行ったはず、とのことであった。 

(2)材料の調達

黒部には杉、檜の大木があったので、これを長方形に製材して使うという贅沢な仕様になっている。表面の柔らかい部分を捨て、強度の高い芯の部分を使ったようだ。模型(インターネットの画像)を見ると個々の木材の断面は横長で、これを積み重ねて縦長の断面としている。

また、架け替え間隔が30年と長かったが、良質な材料で作ったのだろう。

宇奈月温泉近くの「うなづき友学館」の模型を見てみたいものだ。模型とはいっても長さが30mもあるので甲斐の猿橋と同寸である。

仁王橋は、刎ね出し部の長さが14.4mなので土台に埋め込む部分を足すと全長18mの木材が8本、橋桁に16mの木材が2本必要である。

材料は武石村の上田藩の山から伐り出した。種類は赤松であろう。檜、杉があっても藩は伐らせないだろうと。依田川を筏に組んで下ろせば良い。

(3)架橋工事

上田市博物館で絵図を見せてもらった。当時の画法は誇張と省略がきつく、技術者の目で描かれてないので不満が残るが、両岸ともかなりの高い。石井側の土台の上部は石垣になっているが、下部は省略されている。大屋側は全部うやむやに描かれている。

当時の洪水は常水より一丈五尺(4.5m)とあるから水面より7mの土台は必要である。「石井側取付八間二尺(15.2m)」とあるのは基礎の底辺の長さで、上面の寸法は縦横ともに三間(4.8m)、幅は狭くしたはずなので底部の幅で8m程か。刎ね木の根元を重量で押さえつけることが絶対不可欠なので幅をこれ以下にはできない。河原から登り下りするために下流側に階段を設けてあり、この角度が35度である。

(注:上記の寸法は資料に基づくものではない)

赤松材で枠を作り、石を詰め込むのが当時の工法で石が800トン程度。(石だけでなく粘土も混ぜたかも知れない)

橋長を短くしたいのだから土台は施工可能であれば流れの近くに作りたい。そしてできるだけ掘り下げて、大きな石を使って頑丈なものにしておきたい。2月である。寒い川風の吹き付ける河原で濡れた身体を焚き火で温めながら仕事を続けたのであろう。

2月に着工して6月には骨組み(桁渡し)が出来あがっている。工期が短いので案外深く掘っていないかも知れない.

橋全体としては、流れの深い部分を刎橋で渡り、残り100mは当面は河原(浅瀬)を歩くことにし、2期工事として簡単な木橋でも架けようと思っていたかも知れない。

なお、絵図で大屋側にある建物は料金所であろう。渡り賃の記録はないので分からない。

千曲川の一部を峡谷状に改造してから架橋したことになるが、流路を狭めることによって洗掘作用が強くなる。大石橋もこれでやられた。土台が崩れれば、連鎖反応的に橋は流失してしまう。忠七は図面を見たときに、定橋を流されたときの状況を思い出して不安を感じたかもしれない。

橋大工が架橋地点の下見に来たのかと、山辺さんに質問してみたところ、忠七が川の見取り図を持参して、それをもとに打ち合わせ・設計したのでしょう、とのこと。

小県郡史には忠七は毎日河原で数百人を監督して作業に当たらせた、とある。富山から来た工事屋さんには難しい部分を頼み、木材を運ぶ、木を削る、河原を掘る、石を運ぶために神川村民は協力した。この日当、弁当などの費用は先の見積りには含まれていない。

(4)刎ね木の構造

博物館の絵図(新聞1ページほどの大きさ)を見ると左右の刎ね出しが異なっている。右の石井側は5本の刎ね木が規則正しくせり出しているが、左の大屋側は4本で、さらに3本目と4本目の間に大きな間隔がある。

棟梁大工の名前として先に出る沖田与五兵衛(保守派)が技術的に難しい左岸を担当し、材料には良いものを使った。そして藤森吉平(革新派)は右岸を担当し、材料の寸法が不足していたので思い切って新しい技術、すなわち刎ね木どうしを隙間なく束ねるのではなく、三角形に組み立てて強度を稼いでいるようだ。こうすると、下段の刎ね木は座屈を防ぐ補強材となり、左右の刎ね木の構造力学は似て非なるものになる。

どちらが強いか、二人の大工が張り合った(5人は3:2に分かれて仕事をしていたはずだ)様子が目に浮かぶ。桁は先輩の沖田の責任で施工したと思う。

江戸末期ともなると鉄材を土木工事に使えるようになり、鉄帯(?)で緊縛して仕口の強度低下をなくしつつ、剛性アップを図る合理的な設計になっているようだ。これは左右とも共通である。

しかし、枕梁という梃子の支点になるものが描かれていない。設計図とされるものが小県郡史(不明瞭!)にあるが、これにも枕梁は描かれていない。

この部分が重要なノウハウで門外不出(完成すれば丸見えだが)とされていた可能性がある。ネット検索してみると、他の地方にあった刎橋の絵図にも枕梁は描かれていないことが多い。石積みの内部に枕梁を入れてしまうと洪水には強いが、梃子の支点が移動する分だけ材料にはきつい。構造力学的には大問題である。

刎橋渡り初め式の記念品として配った手拭の図(「年表で見る大屋の歴史」の挿絵)では、刎ね木がかっこ良く角材になっているが、博物館の絵図では先にゆくにしたがって細くなっているから丸太を使ったのであろう。

(5)橋桁(はしげた)

大屋刎橋もそうであるが、愛本橋も刎ね木の複雑さに比べて橋桁はシンプルである。刎ね木に施した工夫を橋桁にも適用してほしかった。

落橋したとき、中央の橋桁には、50cm四方に一人ずつとして約200人で10トンの荷重がかかったと推定される。

設計荷重は、米2表を鞍につけた馬3頭と馬子3人が同時に渡る程度であろうから、せいぜい2トン程度であった。橋桁自体の重量は木材が乾いていないので、10トン程度。

刎ね木をあと1mでも伸ばして桁を短くすれば全体として強度が上がったはずだが、やり直しのきかない刎ね木よりも橋桁を弱く作り、過荷重がかかった場合には橋桁が破断するという高度な設計かも知れない。「各自、たわみ具合を見ながら渡って下さい」ということもあろう。

(6)予算と決算

北陸道の要衝、愛本橋は加賀藩が架けたが、仁王橋は忠七の私財と寄付でまかなわれた。見積り金額は約400両であった。

(注:江戸時代の金額の換算は難しい。1両小判中の純金から換算すると、金1両=銀60匁=16,500円であるが、これでは人足の日当が1,400円になってしまう。日当が7,000円になるように調整した場合、金1両=84,000円になり、400両では3,360万円。この見積りには材料費や宿泊費は含まれていない)

今日であれば上等な家1軒分の建築費用である。いかに江戸時代のこととはいえ安過ぎるとも思うが、狭い地域で集めきれる金額という面からみれば外れてはいない。2年前に寄付を取られたばかりであるし、前回と同じように完成した橋を見てからという人もいたに違いなく、忠七が資金を集めるのに苦心したことは容易に想像できる。

先の「定橋」と違って決算の記録がない。プロジェクトリーダの忠七がお寺に篭ってしまったこともあり、工事費の支払いについては問題になったかも知れない。

(7)落橋の状況

渡り初め式が終って一般開放になると橋の両側から一挙に押し寄せて、橋の中央にて大渋滞となり、さらに後方から押し寄せてきたのでついに重さに堪えかねて落橋したとある。このような事態は予想できていたので足軽を配置し、六尺棒を以って群集を制止していたが不十分であった。千曲川ではなく三途(さんず)の川を渡ってしまった人が3人いた。

当時の人は期待が大きいというより好奇心丸出しで、学校や軍隊などの集団生活の経験がないこともあり、制止しても従わなかったのである。

愛本橋でこのような事故があれば、夏でも北アルプスの雪解け水が流れているので水温が低く、犠牲者の数も多くなったと思う。猿橋であれば、高さが31mなので助からない。

千曲川は落ちても助かると見て、安全率を切り詰めて設計した(材料が細くて結果的にそうなった?)のかも知れないというのは、意地悪な想像である。

(8)結論

刎橋は深く狭い谷に架ける橋であり、千曲川には不向きである。もし見物客で折れていなくても洪水で河原上の土台が崩れてしまう可能性が高い。結果論であるが、難しい刎橋より舟橋でも架け続けたほうがこの時代には得策であった。1日でも早く出願したほうが勝ちというような特許戦争ではない。

従来の工法で架けた橋はすぐに流された、何とかしなければならない、ここで刎橋という新しい工法を知る。忠七が惚れ込んでしまったのであれば、プロジェクトリーダーに必要不可欠な情熱という資質がこの場合は災いした。富山への道中で、忠七は雪深い黒部峡谷に架かる巨大な愛本橋に冷静な判断力を奪われてしまったのであろう。

黒部の刎橋は何回も架け替えられたので技術的に熟成されていった。架け替え工事に携わった橋大工は先人の知恵に驚いたであろう。しかし、完成した技術に見えていても「黒部川に架ける場合」という条件付きであることを忘れてはいけない。

沖田与五兵衛、藤森吉平は1863年の愛本橋62mの架橋工事に参加している(総監督ではなかった)はずだが、43.8mに安易な気持ちで取り組んでいないか、とこれも意地悪な想像である。

ビッグプロジェクトにおいては如何にしてリスクを回避するかということも重要である。これは逃げではない。当時は損害保険のようなものは無かったのだろうか。

(9)斜張橋

長野新幹線「あさま号」が千曲川を斜めに横断する上田ハープ橋は斜張橋である。「仁王橋」を斜張橋で実現できなかったのかと夢想する。ヒントは「北陸道名勝画図」に出ている(はず?)で、兼六園の名木が湿雪で折れない様に施す「雪吊り」である。

上田ハープ橋は、長さ270mでコンクリート鉄道橋で国内最長。主塔は鉄筋コンクリート製で高さは65mもあるから旧神川村ならばどこからでも見える。ケーブルは直径11cmで片側11本ずつある。

本題にもどって、主塔は垂直の圧縮荷重を受けるだけなのでそれ程太い木材でなくとも間に合うはずだ。ロープは兼六園の雪吊りのように荒縄というわけにはいかない。しかし、鉄鎖ならば当時の野鍛冶でも可能である。

それぞれの鎖の長さを微調整して張力を均一化する部分は今日ならば簡単にネジで済ますところであるが、当時ネジは一般的ではないので工夫がいる。「ネジ・釘」などと簡単にいうが金属のネジは標準化された精密部品である。

明治になってボルト・ナットが使えるようになると木材どうしをつなぐ部分(仕口という)での強度低下という根本的な問題から解放された。愛本橋は合理的な木製アーチ橋に変更される。細い材料でも橋の強度は高いはずだ。

斜張橋は、理論的に可能でも当時の日本では鉄の生産量が少なく高価であった。鉄の大量生産の技術が確立するのは、岩手県釜石に洋式の官営製鉄所が完成した明治13年ではなく、ようやく明治19年になってからという。

それ以前は、宮崎アニメの「もののけ姫」に登場する「たたら吹き」で鉄を作っていた。女達が鞴(ふいご)を踏むシーンである。

橋の形式は流れをはさんで水際に主塔を2組み(合計4本)建てるタイプが良さそうである。しかしこの型式はデザイン面でハープ橋よりやや劣る。かといってハープ橋のように千曲川のど真ん中に主塔を建てるのは無理であろう。真冬に川底を深く掘ることはとても出来まい。

上田菅平インターの東寄りに上田ローマン橋がある。神川とその河岸段丘に架かるこの連続アーチ橋は古代ローマの水道橋を思わせるデザインからローマン橋と名付けられた。アーチ橋としては国内最長で714mである。

忠七の故郷上田に千曲川水系で最も美しい橋がふたつあることは偶然ではなく、忠七の架橋への執念がついに実ったものである。

おしまい

あとがき

以前神川小学校PTAで世話になった山辺忠広さんと4月6日に同姓の山辺さんのお宅にお邪魔し、「定橋」の掛け軸を見せていただいた。奥さんともども記憶力が素晴らしく、細かいこともよく覚えていらした。

小県郡史にのっている設計図面は土蔵にあるはずですが見つかりませんでした、ということで残念であったが、設計図は現場を見ずに描いた概念図のようなもので、博物館にある絵図のほうが実際のものに近いと思う。

忠七の墓は小牧橋北詰にあり新幹線ハープ橋の延長線上なので、ここからすーっと千曲川の向こう岸に渡れそうに感じた。

大屋刎橋の画像は以下の1点のみ

http://www.city.ueda.nagano.jp/hishoka/koho/koho98/981216kou/hyoshi/hyoshi.htm

愛本橋の画像は「愛本橋」で検索可能。

役に立つ資料は「年表でみる大屋の歴史」、「小県郡史 余篇」の130ページあたり。

「第17回乗鞍」雑感

(男子Eクラス 島田 記)

他人(ひと)が皆 我より速く 見ゆる日よ バーム(VAAM)買い来て ガブガブ飲みぬ

さて「VAAM」である。我々アスリートが30分間以上運動を続けていると、エネルギー源がグリコーゲンから脂肪に切り換わる。ガソリンから軽油に燃料を切換えるようなものだが、切換えがスムーズでないと一時的にガス欠となり、ペースダウンしてしまう。

最初は快調に歩いて次のピッチは調子が悪く、辛抱して歩くうちに再びペースが上がる、いわゆる「エンジンが暖まってきた」という経験があろう。

VAAM」を飲むと脂肪の分解が促進され、パワーダウンがないというのが謳い文句である。

有森が「スズメバチの驚異的なスタミナの研究から生まれたスポーツドリンク」と宣伝していた。ともあれ「贅肉からエネルギーが湧き出す!?」のであるから我々のような(?)レーサーには有り難い。

ところで、この歌が有森旦那の「ガブちゃん」と合わせてあることに気付いてくれたかな。

今年も女装した選手に追い抜かれた。セーラー服でママチャリに跨り「ペダルは漕いじゃだめだ。回せ、回せ」と太い声で指導しながら追い抜いて行った。実力は相当なものでチャンピオンクラスで出場できそうなスピードであった。

仮装の選手は他にもいた。段ボール製の大きな「機関車トーマス」をかぶってギリギリにゴールした選手である。

標高が上がると空力抵抗が下がりスピードが出やすくなるが、第2チェックポイントの位ケ原山荘まではやはり空力抵抗が大きく、思うようにスピードが上がらない。仮装するにしてもトーマスではなく満鉄の「パシナ」をモデルにした流線形のカブリモノが望ましい。

追記:カブリモノが最後まで脱げたりしないでゴールしたことに正直、感嘆した。取り付け方法や軽量化など相当工夫してあると見たが、残念ながら16日の放送では使ってもらえなかったようだ。

 『乗鞍の お尻に食い込む サドルかな

ライダーが「ケツが痛い」とか言ったりするがケツッペタが痛いわけではない。

ライダーとバイク(自転車)は、両手両足とケツの合計5ヶ所に接点をもっているがサドルが最も厄介である。ペダルを漕ぐたびに敏感な部分(専門分野によってはこの一帯を性感帯と称する場合がある)がゴリゴリと上下前後左右に圧迫・摩擦されてしまうのである。

しかし、その課題に対してサドルの進化が著しい。サドルが左右2分割で中央部分がなくて尿道付近にある両脚につながる神経を圧迫せず、ガスの抜けも良い(?)もの。ケツ圧を平均化するためにサドルに特殊な材料(圧力を分散させるゲル)を配置するというもの、あるいはシートポストにバネを内蔵してあって震動を吸収するもの、など工夫されている。

このケツの問題を解ケツする秘ケツを公開しよう。それはサドルをほんの少しだけ前下がりにセットするのである。サドルにドッシリ(尻)と座れないので、体重が腕にも分散され、脚が痺れることがない。(下げ過ぎると腕が疲れる)

なお、「乗鞍の・・」は川柳ではなく、俳句です。「乗鞍」が晩夏の季語。        

ベニテングダケに酔う

杉浦篤

ベニテングダケは毒キノコの王様の様に見えるが猛毒ではない。なにしろ発生量が多く白樺と共生する為時期に行けば必ず採れるし、味も良い為上小地方では意外と食べる人が多い。

我が家でもそうです。なにしろ干したり、漬けたり(保存を兼ねた毒抜き)してもこれだけ多量に食して、今まで害がないのが不思議でした。

通常の毒キノコは、どんな処理をしても毒は毒で、猛毒キノコは死に至る。

私も100種類程のキノコを食しているが、実際に食べたのは毒キノコのなかではベニテングダケだけだ。実際死に至った例は統計上無いという事実を元に人体実験を行う。

空腹時そのももを3本食べた。うまい!その後うっかり酒と夕食を済ませてしまい、疲れてたせいか?寝てしまった。

次の日の朝ケロっと起きたのでなにも症状をつかめず仕舞いでした。

後日、今度は5本食べる。風呂に入った後テレビを見ていると1時間後に頭がホワンホワンしてきた。そして妙な睡魔におそわれる。母屋から50mの離家へやっとこ歩いて寝ようとしたが同時にすごい幻覚症状が現れた。

現実の行動が夢の感覚になっている。腕をつねって現実だと確認するが睡魔に耐えられず寝てしまった、3時間後に起こされ無意識の中、長野病院にかつぎ込まれた。

ベットの上で昏睡状態から覚める時再び幻覚症状が現れる。脈拍がなくなり、いよいよ家族を残して死ぬ実感がした(これも幻覚)。金縛り状態で三途の川一歩手前の心境。臨死体験そのもの。幻覚症状から覚める時生々しく一刻々々夢から覚めるのがわかる。

退院したのが6時間後、長い旅だった。

次の朝、何ごともなく目覚め、家族と秋山郷の紅葉狩りに出発した。

毎年食べていたベニテングダケだが、もう二度と食べる気にはならない。これを楽しむ人もいる様だが私はもう勘弁だ。

晩秋のシモフリ、ムラサキシメジこれが一番だよ。

編集者追記:本文中のアンダーラインは理解しやすくするために島田が書き加えた部分です。以下は、味のある原文をワープロ清書した山口君の感想です。

> 以上原文のままです(たぶん・・・・)、あー疲れた・・・・

> ***("o")***(ToT)***(~O~)***(!o!)***

>       自   遊   人

山の会ホームページ雑感

20029月 若尾

上小山の会のHPを立ち上げたのは平成123月でした。もう2年半、まだ2年半といった感じです。当時、自宅にパソコンとインターネット環境を持っていた会員は10%程度でした。私も、前年暮れに始めた禁煙で浮くはずの経費を先行投資して、この1ヶ月前の2月にパソコンを購入して上田ケーブルビジョンの常時接続インターネットに加入したばかりでした。

HPとほぼ同時に山の会メーリングリストも立ち上げました。その後、インターネット環境にある人は徐々に増えていき、今では会員の90%程度がパソコンを持ちケーブルやADSLの常時高速接続の人も増えてきています。新入会員もネットで上小山の会を知って入ってくる人が大半となってきています。話は少しそれますが、携帯電話の保有率もやはり90%程度になっており、山に行くとき、行ったときの必須アイテムになっています。わずか数年で隔世の感があります。

長野県の労山では、当初HPを立ち上げていたのは上小とR&Bのみでしたが、その後、県連、佐久アッセント、まみくとい、佐久山の会、伊那山仲間、長野労山と徐々に増えてきました。しかしながら、佐久アッセントは管理者がいなくなり更新なしの状態が1年以上続いたあと、先月に閉鎖されてしまいました。また、県連のHPも今年から私の管理となっています。HPの管理更新は結構大変で、他の会のHPなどは更新頻度がかなり少ないです。管理者は更新作業等に時間を割ける人でないと運営が難しいですが、それだけではなく、山にある程度以上行き、会活動にも中心的に参加しており、ある程度のパソコン知識があり、気力がないとできません。ですので、管理担当の交代は結構困難で、佐久アッセントHPの閉鎖もいたしかたなかったのでしょう。県連のHPは今年から私の管理で少しは更新頻度を増やしましたが、私自身が県連活動をあまりしていないことと、全県の連盟という条件から掲載記事が手に入らず更新はあまりできていません。何れにしても、これからの時代はネット対応が不可欠であり、山の会もHP対応がないと会員拡大や活動発展は難しいでしょう。

中田切川本谷の感想

夏が終る前に、無職でゴロゴロしている山の会一のトップクライマー、バイアグラ板井氏を起こし、そのリードの元で集ったメンバーが岩登り経験者だったので少々ハードな、日本百名山のひとつをを選びました。今年は残雪が多く、技術的にも高くなってしまい、また標高差1900mmと体力的にもきつく40過ぎのジジイがやる沢ではない様な気もしました。

酒、タバコ、クスリ漬け、仕事と銭が無く、家でただゴロゴロしている板井氏も、いざ核心部となると興奮剤をドーピングされた様に火事場の馬鹿力を発揮する、さすがバイアグラ。足にサポーター、テーピングをして私達をリードしてくれた。己の体をボロボロにして‥、 ったく涙ものだ。

ヘルシー駒村は年中エアコンの中の仕事で、たまに山に行く。なのにバカデカイザックを背負っても40歳の体力は衰えていない。なぜか豚のように恐ろしく食べる。共同装備を分けてもむすび、安いパン、ウーロン茶で平均2kgはオーバーする。限りなくファッションヘルス的でない駒村氏は超早起き、早寝、昼寝付き。甘いものは食べない(絶対に)。車には乗らない。見習うところだらけだ。さて私も5年ぶりの1泊の山とあって第一ザックを背負って歩けるかが心配だった。やはり下山でヒザをやられた。

中アといえば千畳敷カールが有名だが、この中田切川大雪渓はあの針の木に勝るとも劣らない。中アに大雪渓がある事すら知らなかった。

快適なテント生活をしたかったので、少々時間的に早かったが大雪渓下に張る。キャンプファイヤーの様な焚き火をしながら、6時間もだらだら酒を飲み、眠りにつく。これが沢の醍醐味だ。朝起きるとまだおきが燃えており、上の雪渓をツキノワグマが横切って行った。ブルベリが熟しており私達には無関心だ。今回は技術的,体力的にきつかった。しかし、やさしい沢ほど沢山ある。尾根と谷は同数だ。しかし、名称がつくか付かないかの世界になると沢の名の方が圧倒的に多い。昔の「そま」や猟師等の生活の場が尾根でなく、沢筋であった証拠だ。松本さき子さんも渓流シューズをそろえて行きましょう。やはりそれ無しではカッパを持たないで登山する様なもので、非常識で責任者は認められない。今度はダブル松本だ。ヘルス駒村の希望でノーザイルのやさしい沢(魚野川)でイワナ釣りをしながら余裕の山行をしたいものだ。体力無い方は板井氏より1錠譲ってもらう事を勧める。(杉浦篤 記)

「沖縄修学旅行キャンセル相次ぐ」                  01.9.30 

島田賢治

911日に発生した米国同時多発テロの影響で沖縄への修学旅行のキャンセルが相次いでいるという記事があった。米軍基地を抱えているために「テロが心配」というのがその理由である。文部科学省がテロ直後に都道府県教育委員会に出した「通知」が、必要以上の自粛を招いてしまったらしく、今度は打ち消しに躍起になっているとある。

高校2年生の次女も1015日から34日で沖縄へ修学旅行に行く予定で楽しみにしているが、保護者への緊急説明会があるというので昨日興味津々で出席した。360名の生徒に対して150名程の親が集った。父親は2割ほどで殆ど母親である。

最初に学校側から、「危険性が高まっているとは考えていないので計画どおり実行する。しかし、危険性が特に高まったは場合には直前でも中止する」という趣旨の説明があった。その後質疑応答になり、「心配だから沖縄修学旅行は中止してほしい」という意見が続出した。「今からでも決して遅くないから旅行先を北海道にしてほしい」という貴重(?)な意見も出た。聞いていて感じたことは、形(なり)振り構わず我が子をかばう母心の有り難さと平和で豊かな時代における子離れの難しさである。

参加する生徒に「1015日から修学旅行が行われますが、今のあなたの気持ち、考えていることを率直に書いてみて下さい」という文章回答のアンケートが行われ、クラスの担任が適宜解釈・判断して@旅行を実施すべきだ(全体では45.6%。以下同じ) A旅行に行きたいが不安である(45%) B中止すべきだ(9.4%) に分類・集計してあり、これに対して父親から質問があった。(担任の誘導があったのではないかという疑問があったようだ)

たしかに2組と5組は「旅行に行きたいが不安である」の割合が異常に多いのである。娘に聞いてみると、2組と5組はクラスのまとまりが悪いので、そのメンバーで旅行に行くこと自体が億劫なのだという。それで「不安がある」が多いのだそうだ。

「AとBを足すと50%以上になるのでここに集った人で(採)決を取りましょう」という母親まで現れたが、学校側が「旅行に行くのは生徒自身なのでここで決めることはできません」と断って事無きをえた。横道にそれるが、Aの分類方法が適切ではないと思う。「不安だが行きたい」のか「行きたいが不安」なのかまぜこぜになっている。

「完全に危険性がないことが確認できないのならば沖縄に行くべきではない」と発言するイカレタ母親を説得することは完全に不可能であることを誰もが承知していたようで、反論も出なかった。

修学旅行の娘達と同じ年頃の女学生が地上戦に看護婦として参加し、死んでいった沖縄に平和学習(戦争とはどのようなものか)に行くにはタイミングも良く、空港などの警備が厳重になった現在のほうが安全性はむしろ高まったのではないかと僕は思うのだが。

おしまい

   海豚と醤油の町銚子にて                     01.6.14

                                    島田賢治

千葉県銚子は江戸時代初期から醤油醸造が盛んである。温暖な気候、利根川の水運、江戸に近いなど好条件があったが、ヤマサ醤油とヒゲタ醤油が競い合って醤油造りに励んだことで今日がある。社長はどちらも濱口さんで、親戚同士である。

1.ヤマサ対ヒゲタ

江戸末期の元治元年(1864年)物価高に悩んだ幕府が値下げ令を発したが、銚子と野田の7銘柄については「最上醤油」という名称とともに従来の価格で販売することを許した。そこで屋号に「上」を付け加えたとヒゲタはホームページ上で誇らしげに語っている。野田とは現在のキッコーマン(近在の醤油醸造元が合併して巨大化した)であるが、ヒゲタはキッコーマンに販売を委託しているのでちょっと気を使っている。

ヒゲタの屋号は左上に「上」があり、ヤマサの屋号は右上に「上」の文字がある。さらに、ヤマサには鋭い「反り」があり、ヒゲタには「ふくらみ」があって、両社の味の特徴を屋号のデザインで表現しているようだ。

銚子市内の公共施設や駅、バス停には醤油会社提供のベンチが多い。そしてヤマサとヒゲタがここでも競い合っている。ヤマサのベンチはいかにもヤマサ醤油らしく薄赤紫色のペンキが塗ってある(ヤマサ醤油はキッコーマンより色が薄い)が、ヒゲタは白いベンチで「黄色い看板」を強調している。

ベンチの背もたれの広告も対照的で、ヒゲタは「ヒゲタしょうゆ」とだけ書いてある。いわば直球で勝負するピッチャーで醤油そのものに相当の自信があるようだ。ヤマサはずらりと商品名を並べてあって、変化球を得意とするタイプであり、技術力が高いことを表わしている。(高校野球の名門銚子商業にちなみピッチャーに例えてみた)

駅前の土産屋には銚子名物「鰯の角煮」の隣にヒゲタの「本膳」が並んでいる。ヤマサ醤油はどこでも売っていて珍しくもないし、重いから土産には不適当である。ヤマサの工場の一角で仕込んでいる社長一族専用の「味噌」は土産に良さそうであるが、工場見学の後でないと買うことができない。

2.塩分と血圧の常識?

僕は塩分を控えるようにしているので醤油をドボドボかけたりしない。塩分を摂ると血圧が上がる体質の人は一部で、大多数の人は塩分を摂っても血圧は上がらないから塩分を気にせず使って下さい、と大胆な内容がヒゲタのホームページにあったが、いつのまにか減塩がいかに大切かというありふれた記事になっていた。コピーを取っておけば良かった。

塩分の摂り過ぎ以前に、「おいしさ」そのものが言わば健康の敵である。食べ過ぎが健康に悪いということは常識になっているが、なぜ食べ過ぎるかというと「旨すぎる」からである。なぜ「旨すぎる」食品・調味料があるかというと企業の生存競争の結果である。企業の生存競争の煽りを受けて僕は肥満気味である。英国人のように味に無頓着になれば良いのだが、それでは人生味気ない、と嗜好(思考)は堂々巡りである。

3.銚子電鉄と濡れ煎餅

銚子駅はJR総武本線の終着駅であるが、線路はまだ続いている。NHK朝ドラの「澪つくし」のロケ地にもなった外川駅(とかわ:犬吠埼の先の漁港)まで伸びる銚子電鉄に乗り換えることにしよう。JR2番線ホームの先の方にある風車小屋をかたどった小さな駅舎の先に上半分がチョコレート色、下は明るいレンガ色の電車が停車していて、運転手と車掌がヤマサ醤油のベンチでタバコをふかしている(はずだ)。

いきなり技術の話に飛ぶが、架線は水平ではなく、支点と支点の間が自由に垂れ下がっている(カテナリー曲線)。当然、電車のパンタグラフは大きく上下するが、伸びる瞬間にバチバチと火花を散らしながらゴトゴト走って行く。1両か2両連結の軽便鉄道だから貧弱な架線で間に合うのかも知れない。

銚子電鉄の架線は貧弱だが赤字経営ではないらしい。営業努力は目を見張るもので、仲ノ町駅の機関区(修理工場)の見学が有料(JRならば「危険につき立入り禁止」のはずだ)、「運転手姿で写真を撮りませんか」(有料)という表示もある。駅舎の隅で名物「銚子電鉄の濡れ煎餅」を焼いているが、切符を売りながらでは焦げてしまいそう。

濡れ煎餅は細く切って大根卸しで和えると酒のツマミになるという。油揚げを炙って短冊に切り、大根卸しと一緒に食べる貧者のツマミ「雪虎」と同じ発想である。とにかく、湿度が高い銚子の気候を逆手にとった奇抜な商品で、町の中で良い香りがするときは濡れ煎餅屋がある。ちなみに銚電の濡れ煎餅用の醤油はヤマサが特別の調合品を納入している。

涙ぐましい営業努力の一方で、線路際の空き地に菜の花を植えたり、日本一早い初日の出を見るための電車(去年までは無料)を走らせたりしている。必死と余裕が同居しているところがいかにも銚子らしくて良い。

4.銚子漁港とキャベツ

次の駅が観音。駅から水揚げ日本一(注:毎年ランキングは変わる)の銚子漁港まで歩いて10分程である。銚子沖が有数の漁場になっているのは寒流と暖流が出会い、プランクトンが大発生するためだというが、利根川が関東平野から運び込む栄養分も無視できないと思う。誤解のないように説明しておくが、醤油の絞り粕や使用済みろ過助剤などを海洋投棄することは禁止されており、飼料や肥料として再利用(処分?)している。幸いなことに銚子は春キャベツの一大産地(灯台印キャベツ)でもあり、肥料として引取り先はありそうである。

5.犬吠埼灯台

銚子電鉄沿線の観光地は犬吠埼しかない。犬吠駅舎は南欧風であるがここでも煎餅を焼いてヤマサ醤油を塗っているので駅に和風の香りが漂っている。

駅から犬吠埼灯台は歩いて10分程であった。150円の入場料を払って煉瓦造り白壁の灯台に入ると資料館になっており、灯台の電球やフレネルレンズの実物がある。犬吠埼灯台の400ワットの光は約40km先まで届いたそうである。なお、レンズをグルグル回す機械は数年前に運用を停止している。九十九里浜にちなんだ99段の螺旋階段を登り、展望台に立って久し振りに太平洋を眺めた。

6.海豚ウオッチング

終着の外川駅で下車し、「銚子海洋研究所」の事務所で乗船名簿に名前を書いた。これからイルカを見に行こうという訳である。

日曜日だったので16人乗りの船は満員であった。1時間半くらい沖に出て、陸地が全く見えなくなった頃にイルカの群れに出会った。午前中のクルージングでは2,000頭の群れが見られたそうだが、バラけて200頭程の小規模な群れになったそうである。

種類はカマイルカで白い模様がはっきりしており、体長は2mくらい。群れに合わせてゆっくり船を進め、イルカのジャンプ(調教しなくても数頭並んでジャンプしたりする)を眺めるのだが、あのように泳げたらと誰でも思うだろう。料金は7,000円であったが、夏場は沿岸で見ることができるので料金も安く、子供も乗船できる。

銚子市内の居酒屋ではイルカ料理を出すが、物好きが注文するだけらしい。小形の鯨をイルカと呼んでいるが、刺身になるものが鯨、肉が臭くて刺身では食えないものがイルカでもある。大根と一緒に煮た料理(煮魚?)を食べてみたが特に脂身のところが不味い。ともあれ肉が不味いからこそ2000頭ものイルカ(海豚:名前は旨そうだが)が、楽しそうに銚子の沖を泳ぎ回っているわけだ。

7.海鳥

イルカも海鳥も魚の群れを追いかけているので、イルカを見つけるにはまず海鳥を探せということになる。鳥の種類を聞きそびれたが(カモメかカツオドリだと思う)、港を暇つぶし(?)に飛んでいるとき(滑空しているとき)は翼端を水平まで上げて旅客機と同じ飛行スタイルであるが、魚を捕獲するために低空飛行をするときは翼を斜め下に向けてジェット戦闘機スタイルに切換えている。翼を下げると横安定性がなくなるし、海面近くの気流の乱れもあって気を抜けないだろう。港に帰ってきたときくらいは翼端を上げて飛びたくなる、はずだ。

海面近くを泳ぐいわゆる青魚の背中の色は保護色だと聞いたことがある。海鳥は飛びながら青魚を探すわけだが、真下ではなく斜め下の海面下を見ることになるので海面の反射光に妨げられないのであろうか。鳥にはカメラの偏光フィルターと同じように反射光をカットする機能があるのかも知れない。この頃、視力の衰えを感じるので海鳥の視力がうらやましい。                           おしまい

東太郎山(1301m);2000.11.5

金井地区の山ノ神の祠が、数年前の豪雪で倒れていました。ということで、役員で直しに行きました。下から、金井・大久保・傍陽の祠があるのです。コンクリートで固めてきました。せっかくだということで、山頂まで登ることにしました。大人2人と小学生の三人展望の利かない登山道で、年間300日も登る人のいる太郎山ほど人気のないのがわかります。大久保の祠は、15m位の岩の上に建ち、展望も少しききます。傍陽の祠は、道から外れているようでわかりませんでした。山頂は、2等三角点なので、周りの木が低ければ展望はよいでしょう。50年前くらいだったら、上田市周辺のいい山のひとつでしょう。目の前に、そびえる山をようやく登りました。近すぎて、機会を逃していたのです。

*** 上田 ***

稲包山(1598m);2000.10.28

久しぶりで山に登りました。四万温泉(群馬・中之条町)の山です。温泉の上流に大きなダムができています。その横の道をたどり、一番上に入り口があります。最初から急登です。赤坂山の分岐より、なだらかな稜線を登り下りしていきます。上州の槍ヶ岳(岩山ではないが!)とも言えるような穂先の山です。途中で尖った山頂が見え、結構遠いなと思いましたが、やはり距離はありました。これといって特徴の無い山ですが、山頂は絶景です。上越の山が素晴らしい。快晴だったら海も見えるでしょう。途中から、半そでで登りましたが、山頂はやはり寒いです。前を行く団体(追い抜いた10人と4人)は、どうも法師温泉に下りたようです。四万温泉から法師温泉へのはしごもいいかもしれません。山ヒルが多いようですので、時期をみたほうがよいでしょう。膝が痛くて、最後の30分は苦しみました。しかし、平地に着くと治ってしまいました。

巨人・優勝しました。万歳!!!今日のダイエーは、ボロボロでした。

*** 上田 ***

四阿山;2000.8.14

8月10日までという納期の仕事があり、また、お祭りなどがあり、山にいけませんでした。夏ばてに近い状態なので、横着してパルコール嬬恋というスキー場のゴンドラであがっていきました。片道1100円、往復1500円です。浦倉山という100名山「四阿山」の隣の山にでます。冬は、子供を連れてよくいったスキー場です。割と緩斜面で、子供を滑らすには、いいスキー場です。結構、距離長く滑れます。雪質も良です。夏と紅葉の時期は、運転しているようです。100名山「四阿山」の最短コースということで、ここから登る人も最近多いようです。いきなり稜線を歩いていく展望のいいコースのはずですが、万座・浅間隠山・鼻曲山など東・北側は時々晴れて見えましたが、アルプス方面の展望は、ききませんでした。70から80人くらい登山者がいたと思います。どういう訳か「上州祠」の方が人気があるようで、混んでました。帰りは、いくらなんでもということで、野地平を経て、歩いて下りてきました。浦倉山から、米子不動滝に下りられるようです。(3時間)

*** 上田 昇 ***

飯綱山;2000.7.16

子供が長野に行くというので、送るついでに飯綱山に登ってきました。(7・16)旧バードライン脇の駐車場に最初は、車を置いたのですが、しばらく舗装道路が続くようだったので、思い直し、もう少し先まで行きました。・・・登山者ようの駐車場があります。車20台くらい、登山口に5台、久しぶりに人の多い山に来たと思いましたが、頂上までは、あまり人に会いませんでした。10時45分では、やはり遅いかも、、、しかし、下りに会う人は2時過ぎに登ってくる人もいる!!朝早くから登るのが正解でしょうが、自分も人の事はいえません。頂上手前で小学生(4年か5年くらい)の団体登山・・・
曇りで展望は、北アルプスがぼんやり見える程度でした。夏はビールということで、少し生ぬるいビールを飲みました。それでも、うまい・・・
帰りは、あの小学生の団体に追いついてしまって、すこしいらいらと下ってきました。ずいぶん昔の3月に登ったというのは、覚えていますがこのコースだったのか、まるで覚えていません。木村・島田とあとだれか、雪洞を掘ったことだけ覚えています。

*** 上田 昇 ***

嵩山;2000.7.9

台風が通り過ぎ、いい天気になってきたので出かけました。嵩山(たけやま)789mは、群馬・中之条町にあります。あの小渕さん(首相)の故郷だったと思います。上田より日本ロマンチック街道(144,145)という道を東に向かい、沼田の少し手前です。日本ロマンチック街道というのは、多分「若山牧水」のたどった道を言っているのでしょう。軽井沢・志賀高原・草津から日光あたりまでの道でしょう。岩櫃山・嵩山なども真田の攻め落とした城のあった山です。駐車場から大きな岩が二つ見えます。男岩と屏風岩というようです。5月5日にこの岩に「こいのぼり」を飾るようで、ワイヤロープが張ってあります。雑誌に岩が(クライミング)紹介されてから、岩登り禁止となったようです。ボルトがキラキラしています。霊山にあんなにルートをつくるから地元の人も怒ったのでしょう。まず、表登山道を登ることにしました。信仰の山であり、寄り道をするといろいろなものがあります。石仏・胎内くぐりなどです。適当に、はしょりました。稜線に小天狗・中天狗・大天狗という大岩があり、大天狗が頂上です。時間的には、登り1時間ちょっとです。下りは、東登山道を下りました。2回も雨の中を歩いたせいか、とうとう靴が壊れてしまいました。革靴は、縫ってあるのですが、接着してあるので弱いのでしょう。ということで、なくなく新品を買ってしまいました。

*** 上田 昇 ***

破風岳;2000.6.24

多少、二日酔いの残るなか、小雨の中を登ってきました。須坂より悪い道をようやく車で登っていきました。待っていたのは、地元のおっさんなんとここでは、駐車料金をとっていました。(金500円)ツツジの季節なのだからでしょうか?破風高原は、湯の丸よりツツジ多いくらいです。道が悪いので穴場でしょう。湯の丸・地蔵峠の30年前のような道です。しかも、急で長い。五味池というのがあるはずだと、どこにあるのかと思ったら、そこから、下るようです。(450m)破風岳は、ツツジの群落を抜け、牧場を抜け、烏帽子岳への途中のようなところを、だらだらと登っていきます。登りらしい登りがなく、本当にだらだらとしています。雨で、道が川のようでした。当然、靴は水びたし・・・今回も登山者は、他にたった一人でした。眺めは、晴れていればよいでしょう。今回は、土鍋山も見えませんでした。1999mと2000mの山ということで、今年の正月は募集登山をやったようです。・・・反対側の毛無峠よりだったようです。

*** 上田 昇 ***

五郎山;2000.6.17

今日は、もう少し天気が持つと思いましたが、甘かったです。五郎山とは,川上村奥の千曲川源流の山のひとつです。入り口は、すぐわかります。梓山より町田市の保養施設に向かい、バンガローのあるところ、林道をしばらくいき、幻の滝看板より、登っていきます。他に誰もいなく、後から甲武信岳に向かう人が、間違えてきたのみです。教えてやったら、戻りました。滝までは、良かったのですが、そこから先がわからない。整備されていないのか、自分が最初から間違えたのか、いずれにせよ、大変な目にあいました。そのうち、雨も強くなり、とにかく稜線まで出ましたが、ふつう、稜線は踏み跡があるものですが、・・・ない。あきらめて退却したが、今度は降り口がわからなくなりました。さんざん、迷い、ようやく戻ってきました。びしょびしょで、どろどろでした。ひとりで、雨の日にゆく山では、ないと思います。雨の日は、本を読むのがいいのかもしれません。

*** 上田 昇 ***

ロンドン博物館三昧の旅                  95.2.4(Rev00.9.9)

島田賢治

ロンドンの博物館に一人で行って来ました。イギリス人は古いものを大切にする習性があるので博物館は充実しています。というより世界に誇れるものがあるのでみんなに見せたいのだと思います。全行程は8日間でしたが、動けるのは5日間でした。疑問に思ったことを確認するにはあまりにも貧弱な英語力で、帰ってきてから調べて補いましたが、「思いこみ」と「勘違い」が随所にあるはずです。眉に唾をタップリ付けながら読んで下さい。

1.クレオパトラニードル

剱岳チンネの隣にクレオパトラニードルという鋭鋒がある。何気なくクレオパトラの高い鼻から連想して付けた名前だと思っていたが、ロンドンのテムズ川の岸にあるのが本家らしい(観光地図では「クレオパトラの方尖塔」)。 高さが15m程で四角い石造りの尖塔を2頭のライオンが守っているデザインである。時差ボケとアドレナリンの過剰分泌のために寝付けなかったので深夜のお散歩に出かけ、歩き回っているうちに偶然見つけた。

2.天気予報

テレビの天気予報が面白かった。日本では気圧配置を最初に見せて、続いて雨が降るとか晴れるとか予報(予想?)を言うが、こちらでは地図上にコンピュータグラフィックで雲のモヤモヤを示すだけで低気圧も寒冷前線もない。気圧配置がめまぐるしく変わって晴れたり、降ったりするのは日本だけかも知れない。

FLANCIS WILSONという男はポケットに片手を突っ込み、地図を手(指ではなく)でなで回しながら説明するのだが、グレートブリテン島より手の方が大きいのでどの地点を指し示しているか全く分からない。ちょっと不良ぽいお天気キャスターであった。

3.公園と王立植物園

冬のロンドンは曇り時々雨で毎日天気が悪く、「もっと光を!」(注:ゲーテ臨終の言葉)と叫びたくなるほど昼頃でも薄暗いので気が滅入り、鬱病になりそうである。

ちなみにイギリス人は男女、年齢を問わず多少の雨では傘を差さないようだ。霧雨が多いので傘を差しても洋服が濡れてしまうので、帽子とコートで雨対策するのが得策かも知れない。帰りの飛行機で隣席の日本人とその話をしたら「試しに傘を差さずに歩いてみたら、髪が濡れて惨めな感じになってしまった。イギリス人の髪は濡れても大丈夫なんですよ」と教わった。

王立植物園・キューガーデンズは世界の植物園でも筆頭にあげられる第一級の植物園である。テムズ川を少し上流に行ったところにあるので船でも行けるそうだが僕は地下鉄で行った。

「パームハウス」という熱帯植物温室は1851年のロンドン万国博覧会の数年後に(資料がなくてはっきりしないがハイドパークに建築された水晶宮と同じ技術)建築されたもので、装飾のある巨大な鋳鉄の柱と湾曲した板ガラスの巨大な空間は最先端の建築物であった。

熱帯の植物は南米、アジア、アフリカというように大陸別に分けて栽培されている。万国博覧会当時はまだまだ探検家が活躍できた時代で珍しい植物は女王陛下への献上品だったかも知れないし、南国へのあこがれもあったのだろう。

温帯植物の温室もあったが見慣れたものが多く、熱帯の植物の「何でもあり」のデザインに比べると合理的な形ばかりで面白みに欠ける。広大な植物園には温室がたくさんあるので、砂漠などの乾燥地帯の植物や高山帯の植物もあるに違いない。

ミュージアムショップには茶器や絵画集、写真集、洋服類が並んでいて大英博物館のショップよりも品揃えが良い、というか僕好みであった。ここで濃い緑のトレーナーを買った。結構気に入ってよく着ているのでくたびれてしまったが、大事にしたい。

受付の人に「麦畑も野菜畑もないようですが?」という質問をしてみた。昨日、ヨークまで行ったのだが、羊の牧場しかなかったのが不思議だったのである。「ロンドンの南側では小麦も野菜も栽培していますよ」ということであったが、野菜はアフリカとかスペインからの輸入が多いらしい。

4.ロンドンタクシーと自転車

黒塗りのタクシーと赤いダブルデッカー(二階建てバス)はロンドン名物である。タクシーに乗るときは助手席側の窓から行く先を告げること、運転席との間には仕切があること、向かい合わせに座るジャンプシートがあるので6人くらい乗れること、という予備知識はもっていた。

しかし乗ってみてディーゼルエンジンの音がするので驚いた。走っているのを見てガソリンエンジンだと思いこんでいたのである。日本のディーゼルエンジンは馬力が大きいが、例外なく黒煙モウモウである。どうやら我らの技術先進国は小さなエンジンから馬力を絞り出す技術だけが世界一らしい。(後日記:東京都ではディーゼル乗用車を禁止しようとしている)ロンドンは大気汚染で苦しんだ歴史があり、大気汚染に対する厳しい思想はその歴史から生まれたものだろう。

自転車はマウンテンバイクが主流でママチャリは見かけなかった。街を「舞台」にし、サイクルパンツとヘルメットの「衣装」をつけて、芝居の出演者のように歩行者の視線を意識しながら全力で疾走(通勤?)していた。放置自転車を見かけないし、歩道を走る自転車もない。歩行者は信号が赤でも構わずに横断するのが普通だが、自転車は信号に従っている。英国では自転車は自動車と同類なのかも知れない。(日本では歩行者と同じだったり、車と同じだったり都合良く解釈するが)

5.“豚”パブにて

オックスフォード通りで買い物をした後で、“豚”の看板のパブに入ったときの話である。キドニーパイを注文しておき、エール(イギリスのビール)をチビチビ飲みながら店内を見回すと、近くの椅子や床に座っているのはどうやら日本の青年であった。留学生にしては知性が感じられず、目が合うと気まずい顔をするのであった。これはいわゆる遊学生だと断定した。

イギリス人に比べて体格などがやはり見劣りする。劣等感にさいなまれて同じ髪の色、同じ目の色で群れているように見えた。そのグループの中に中国系(?)らしき女の子が一人いて、ハサミとクシを持ち出して白人の男の子の前髪をいじっている。自然体で、会話も自在であった。この店で久しぶりに日本語を聞いたが、その日本人“遊学生”どうしの会話であった。

おっと遊学生に気を取られてキドニーパイの報告を忘れるところであった。パイ生地でつくったパンとポテトと豆とビーフシチューが皿の上で同居しているもので、キドニー(腎臓)がどこにあるか分からなかった。さいわい不味くはない。

大英帝国の料理はとにかく不味いという評判であるが、本当であった。特に不味かったのは科学博物館のレストランの昼飯で、吐き気がしたので我慢したら涙が出そうになった。何故こんな不味いものを食べているのだろう。それからセブンイレブンで買ったカップヌードルもすごかった。土産に持ち帰ったが、家の者は一口でいやがり、猫に与えてみたが食わなかった。サンドイッチやフィッシュアンドチップスはまあまあのレベルであるが、コーヒーは不味い。紅茶は飲まなかったので分からない。

余談。卒業旅行のシーズンだったので女子学生を良く見かけた。化粧しても無駄というか「結婚披露宴は無駄だからやめよう」的な意見をもっていそうな方が多い(ような気がする)。そういうのに限って空港のチェックインカウンターで受付の男性社員と知り合いでもないのに延々としゃべっている。早くしろ!(美人系はファッションとか化粧品のほうに金を使ってしまうので海外旅行には行かないのではないか)

6.ダイエー博物館

いきなり大英博物館を茶化してしまったが、一説によると1週間必要だとかいうが古代史の知識がないと2時間もたない。要するに古いものがたくさん置いてあるだけである。面白かったのは 例のロゼッタストーンだけであった。極めて貴重な資料であるが自由に触ることが許されている。

注:ロゼッタストーンとは1799年、ナポレオン率いるフランス軍がナイル河口のロゼッタ村から偶然掘り出した。 高さ114cm、幅72cm、厚さ28cm、重さ762kgの玄武岩の石碑に上から「ヒエログリフ」、「デモティック」および「ギリシャ文字」の順に文字が刻まれており、ロゼッタストーンのギリシャ文字部分を簡単に読む事ができた。その内容は、プトレマイオス5世の戴冠記念祭に関する布告文であり、紀元前196年のものであった。

7.蒸気機関/科学博物館と鉄道博物館にて

科学博物館には2度行った。ニューコメンの蒸気機関(1705年最初の実用的蒸気機関を発明)とワットの蒸気機関(1769年分離凝縮器を発明し、大幅に熱効率を上げる)が展示室入り口の一等地に展示されている。

歴史の授業で「ワットが湯気で動くヤカンのフタを見て上記機関を発明した」と習ったかも知れないが、実際にはニューコメンの原始的な蒸気機関を改良したのである。両者とも蒸気を冷やしたときに発生する負圧を利用したもので、ワット自身は高圧の蒸気で駆動することは危険すぎるとして反対であったというが、あの鋳物を見れば納得する。蒸気エンジンのピストン(直径1.5m)だけを外して展示してある。当時の鋳造技術と工作機械では精度が不十分でシリンダーとの隙間をふさぐためにロープやボロ布を巻き付けたらしい。

蒸気機関車の元祖はスチーブンソンではなくトレビシックである。高温・高圧の蒸気を使う小型で強力なエンジンを発明した(1802年)。トレビシックは世界初の機関車を作っているが商業的に成功しなかったのでエンジンを外して工場動力用としたが、その実機が展示されている。元祖第一種圧力容器ともいうべきそのボイラーは直径が1.2mくらいの横置き円筒形で、材質が鋳鉄、胴板の厚さが38mm、圧力は3.4kg/cmであった。シリンダーで仕事が終わった蒸気から熱を回収する熱交換器や安全弁が付いている。圧力計が付いていないのはまだ発明されていないためか?

トレビシック以降のボイラーが鉄板(錬鉄?)製なのは鋳鉄製のボイラーには事故が多かったためらしい。今日でも鋳鉄製の高圧ボイラーは技術的に無理であろう。爆発する危険性が大きくて誰も近づかないはずである。なお当時既に馬車鉄道が使われていたが、レールは木に鉄板を張ったものであったから、ワットの蒸気機関ではレールが壊れて脱線してしまう。

ロンドンの北200kmにヨークという歴史の古い町があり、世界最大の鉄道博物館がある。キングズクロス駅から「フライングスコッツマン」に乗ってゆこうとも思っていたが、前日、駅に行って調べてみると10時ちょうどに発車する(1862年以来発車時刻は変更なし)ので時間が合わなかったのと、ヨークには停車しないので普通の特急の往復切符を購入しておいた。ホテルからそう遠くないので通勤する人に混ざって駅まで歩いてゆく。町にはサンドイッチバーがあって、朝食を食べている人が多い。

駅のカフェでコーヒーを注文すると見慣れないヤツで出てきた。シャフトを何度も押していたら隣の人が正しい使い方を教えてくれたが既にコーヒー粉が混ざってしまい失敗。

注:メリオール(インターネットで調査して疑問が解けた)

フランスで誕生した器具で、日本では紅茶を入れるときに使われている。プレス式エスプレッソともいわれて、フランスではエスプレッソ器の代用として使用される。お湯とコーヒー粉を入れてフィルターとシャフトのついた蓋をし、2〜3分そのままにしてシャフトを静かに底に押し下げると粉が沈むので、上の抽出液をカップに注ぐ。粉は深みに煎った中挽きか粗挽きがよい。

駅を発車してから10分程すると市街地から牧場に完全に変わったのには驚いた。市街地の面積だけで表現すれば長野市や松本より少し大きい程度かも知れない。東西方向というかテムズ川に沿って都市が広がっているようだ。

さて鉄道博物館には1938年に時速203kmを記録したマラード号がある。流線形のカバーがついており、日本人にはちょっと違和感がある。係員に蒸気圧力を質問すると許可が出たので運転席に入ってみた。圧力計を見ると17.5kg/cmのところに印があった。後で調べてみると営業列車での速度記録は時速181kmで驚異的なスピードである。ドイツでは1936年に時速201kmを記録していて、戦前のことであるから猛烈な対抗意識で記録を狙ったことは想像できる。

鉄道の黎明期に速度上げるために動輪を巨大化してゆき、ついには巨大な動輪が1軸だけあるシングルドライバーとか、スチーブンソンのロケット号のレプリカとか、奇妙なものとしてはボイラーの無い機関車があった。工場構内専用らしいが、高温高圧の蒸気を送り込んで、いわば充電しておいて運転するという。普通の蒸気機関車のカットモデルは外見から想像するよりもはるかに複雑で、細かく追って行くと訳が分からなくなる。

意外に面白いのは線路の発達史で、50cm程の短い鋳鉄製のレールは枕木の位置でつないで使用した。枕木では二つ割りの半円形の枕木や石の枕木(?)もあるし、レールを固定する犬釘の変遷も面白い。

8.巡洋艦にて

第二次世界大戦当時の巡洋艦がテムズ川に係留されて海軍の博物館になっている。主砲の下に下りて行くと直径20cmくらいの砲弾が並べてあった。射程距離が戦艦ほど長くないので弾道計算や光学測距のシステムは案外簡単かも知れないが、見学コースにはなかった。(鉄道博物館から戻ってきて行ったので時間が少なく、回り切れなかった)

機関室ではボイラーの焚き口が見えるだけであったが、狭い階段をさらに下りて行くと蒸気タービンと減速ギアが見えるようにケーシングを開いて展示してある。蒸気タービンの大型化は容易であろうが、この減速ギアは難物であろうと推定した。高圧タービンと低圧タービンの出力軸の片端がダブルヘリカルギアになっており、これがスクリューにつながる大きなギアに噛み合っている。

当時の日本の戦艦は主砲の大口径化には熱心であったが、速度をあまり重視していないようだ。いろいろな理由があろうが、肝心の歯車工作機械が国産化できなかったために戦前に輸入した古い工作機械に頼っていたのではないかと思っている(引き続き調査予定)。

9.航空機エンジン/科学博物館と空軍博物館にて

科学博物館の航空機部門のコレクションは機体よりもエンジンにウェイトを置いている。ライト兄弟が初飛行した1903年より少し後のピストンエンジンから始まってジェットエンジンまで2段の棚にずらりと無造作に並べてある。

日本の航空エンジンで展示されているのは現在の富士重工のルーツにあたる中島飛行機の「誉」(星形複列18気筒、1,850−2,200馬力)だけであるが、説明には「英国ブリストル社と米国ライト社から導入した技術を独自に改良し、良いエンジンを作った。特にシリンダーヘッドの冷却フィンの鋳造技術が良い」とあった。

ロールスロイスのマーリン/MERLINとダイムラーベンツのDB605がカットモデルで展示されている。それぞれ第二次世界大戦の英独を代表するスピットファイアとメッサーシュミットBF109のエンジンであるが、極めて対照的な設計である。マーリンは正立12気筒、1,800馬力(展示されていたのはレース仕様かも知れない。普通のは1,100馬力くらい)、排気量が27リットル。DB605は倒立(クランク軸が上にある)V型12気筒、1,475馬力、排気量が35.7リットル、シリンダー内に燃料を直接噴射するので気化器はない。

メカ的にはDB605が凝っていて面白いが、性能はマーリンが優位だったらしい。(燃料の質が異なるので性能比較は難しいらしい)なお見た目にはマーリンの方が美しい。

ジェットエンジンもいいものが揃っている。ホイットル卿の作った元祖ジェットエンジンとか、垂直離着陸機ハリアーの「ペガサス」とか。第二次世界大戦中に英独ともジェト戦闘機を実用化しているが、イギリスは遠心式圧縮機でドイツは軸流圧縮機タイプであった。性能を優先させたこだわりのドイツ、作り易さを優先させた戦争上手のイギリスという対照がある。

ロケットの展示で重要なものはドーバー海峡を越えてロンドンを襲った大陸間弾道ミサイル「V2」である。かねがね疑問に思っていたのがその制御(航法)である。コンピュータのない当時の技術レベルでどのように実用化したのであろうか。展示品を見るとジャイロを使った姿勢制御と時計を組み合わせた程度で、加速度を2回積分して移動距離を求めるような高級なものではなかったようだ。

機体では大西洋の横断に初めて成功した(1919年)ビッカースビミー双発機(実機)があったが、オープンカーのような操縦席であった。余程寒かった違いないが、航空計器が発達していなかった当時は顔に当たる気流を直接感じ取る必要があったのかも知れない。

空軍博物館はロンドンの町はずれのヘンドンにあり、地下鉄(地上を走っているが)の駅から15分程歩く。ここには新旧の戦闘機、爆撃機などが所狭しと並んでいる。英国空軍(RAF)だけではなくドイツ軍のもあって比較できるようになっているのが戦勝国の博物館の特徴である。

かねてから疑問に思っていたエンジンの始動方式について質問してみた。説明員は元パイロットで自分でエンジンを始動したことがないらしく、大部もたついていた。

初期には整備員がクランク棒を差し込んで回したり、自動車の動力でプロペラ先端を回転させたりしていたが、後期には自動車と同じようにセルスターター(巨大な電池はリアカーに積んでおいて太い電源ケーブルで接続する)で始動するようになった。モーターは案外小さくて、巨大なエンジンを始動するのにこれで間に合うのか心配になるほどであった。(はずみ車をモータで回転させておいて、そのエネルギーを減速ギアとクラッチでエンジンに伝えて始動するタイプもあるらしい)

なお始動前にプロペラを手で回すのは点検のためで、潤滑油がシリンダーに漏れている場合に強引に回すとシリンダーヘッドが壊れてしまう。

10.エレクトロニクス

第二次世界大戦の技術的進歩(殺人の技術に進歩というのは妙な表現であるが)のひとつはレーダーである。(ライダーと発音するようだ)

連合軍は地上の建築物を映し出せるレーダーを装備した爆撃機で夜間でも雲の上からでもドイツの町を爆撃した。科学博物館にはレーダー用の出力750KW(パルス出力)のマグネトロンがあり、また戦争博物館にはアブロランカスター重爆撃機のレーダー装置(丸いブラウン管)が展示されていた。今日の電子レンジはこのレーダー(マグネトロン)の末裔である。

また空軍の博物館には海岸線に沿って展開されていたVHF(超短波)レーダーの展示があった。これは反射波をオシロスコープで表示して航空機の数と距離を測定するタイプである。きりりとした女性軍人がブラウン管上に定規を置いて距離を測っている様子がお得意の蝋人形でできているが、あんな美人はロンドンではついぞ見かけなかった。

航空機(戦闘機?)の無線機は空−空で5マイルの通信距離という受信機6球、送信機が2球のセットが展示されていたが、周波数は超短波ではなく短波(4.3−6MHz)を使っていた。

11.戦争博物館

戦争博物館(WAR MUSEUM)には爆撃を受けて破壊された町の様子がリアルに再現されていたり、撃墜された飛行機、ガスマスク、有刺鉄線、塹壕戦で使ったという釘のついた棍棒なども生々しく展示されていて戦争がきれい事ではないことを教えている。

不思議なことにイギリスは第二次世界大戦以後も、最近ではフォークランド戦争、湾岸戦争と次々に戦争に参加するが負けたことはなく、展示物はますます充実するであろう。

                                            おしまい

   奥日光散歩                         ’73.4(Rev’00.9.25)

                     島田賢治

大学3年生の時、両毛国境(群馬と栃木の県境)を単独縦走した。技術も経験もないのに、ずいぶん無茶なことをしたものだと思い出すが、縦走記録の少ない山域なので紹介したいと思う。工学部金属工学科のメンバーがお遊びで編集していた雑誌サムスィングアザー(ガリ版で発行部数が30部ほど)に載せたものである。

9月25日(初日)

自宅――日光湯元14:00――リフト終点15:00/15:05――テント泊16:35

早朝、家(茨城県高萩市)を出発して宇都宮経由で日光まで行く。日光駅前の食堂で昼飯を食いながらTVを見ていたら、ニクソン大統領訪中の中継が映っていた(追記:ベトナム戦争はまだ終わっていないが、73年春にアメリカ軍は泥沼状態のベトナム戦争から手を引いている。米国内での反戦運動の高揚、国際世論への配慮、戦場帰還兵の麻薬問題などで実質的にアメリカは敗戦した)。 

日光駅前からバスに乗り、いろは坂、中禅寺湖を通って湯元に着いたのが午後2時頃。ここからスキー場の中を登って行くとリフトの終点が前白根山の登山口になっている。登山道は案外狭かった。(追記:時刻的にはこの登山口で幕営するべきだが、何故かドンドン登ってしまう) 

登山口から少し入ったところに遭難慰霊碑があり、白根沢が流れている。 ここから急坂になっており倒木が多い。時間帯のせいか人に会わないし、登山者のマナーが良いのか、入山者が少ないのかゴミはほとんどない。大自然の真っ只中にいると強く感じる。整備された登山道をゴミを踏みしめながら登るのは御免だ。 

単独行はついつい休憩が多くなる。今日の幕営予定地の五色沼にたどり着く前に暗くなってしまいそうである。仕方なく、登山道が少し広くなっている所を見つけてテントを張った。ガソリンコンロで飯を炊いたが、?澱粉が完全に?化していない俗に言うガンタ飯。コップ1杯の水があればガンタを直すことができるのに途中で全部飲んでしまった為にポリタンはからっぽだった。ザーザーという水音が沢から聞こえてくる。「道はないが、道らしきものはある」という所へ行くのに最初からこんな調子では…と思うと急に心細くなってしまった。とにかく野菜炒めをオカズに、テントの中で夕飯を食べた。

テントの幅より登山道が狭い。できるだけ山側にくっつきテントの布地を通して木の根につかまったりしているのだが、寝返りを打つたびに谷側にずれるので心配である。やっと眠りに入ったのは12時頃か。

9月26日(2日目)

テント6:50――天狗平7:25/7:30――前白根山頂8:00/8:05――冬季避難小屋8:25/8:30――錫が岳12:45/13:20――柳沢水場14:35――荷鞍尾根の頭15:55/16:15――林道沢入り口16:30――テント泊17:00

昨夜良く眠れず、起床が6時になってしまった。もう外は明るい。目覚めの瞬間、円くて青いテントの天井を見て山にいることを認識した。昨夜のガスが晴れていて沢をはさんだ向こう側斜面の紅葉がきれいだった。水がなかったので昨夜のガンタ飯で焼き飯を作る。この焼き飯は美味しくて(?)やっとの思いで胃袋に押し込んだ。それでも残ったので後で食べることにし、コッフェルの中に残しておいた。

朝露に濡れながら石楠花のヤブをかき分けてゆくと、人の声が聞こえる。東京から来たという高校生が3人居た。少し黒っぽい柴犬くらいの大きさの犬も1匹いた。おそらく下の温泉町から付いて来たのだろう。彼らはパンと紅茶の朝食中であった。他人が食べていると欲しくなる。嗚呼、俺もパンと紅茶を持って来れば良かったと。「ひとつ如何ですか?」などと言い出さないかと秘かに期待したが、高校生が言い出すわけがない。彼らは奥白根を通って菅沼に行くと言っていた。

その犬は何を考えたのか俺に付いて来た。一人旅でもあるし、犬でも何でもいれば心強いと思う。さらに行くと「天狗平」、次に前白根山2370メートル。この頂上には木がないので縦走路中一番の展望台であった。北には奥白根山、2588メートル。高度には一応敬服するとしても気品の感じられない山である。それをやっと支えているのが五色沼である。水が青く、周囲の紅葉も映しているので五色沼と称するのかも知れない。皇海山(「すかいさん」と読む)は遠くに霞んで見えた。いかにも藪の深そうな稜線が続いている。あの頂に立つことができるのだろうかと思うと不安で胸が痛くなる。

縦走路を五色沼に下りて行き、奥白根に行く道をとらずに左に行ったところに冬季避難小屋とロボット雨量計の残骸があり、大きなプラスチックの容器に雨水が入っており、五色沼まで水汲みに行かなくても間に合った。容器の底にゴミが沈んでいたがボウフラはいなかったのでこれ幸いと空のポリタンに水を移す。

しばらく歩いてから例の焼き飯を食い、犬にも食べさせる。すっかりいい気分になって、展望の良い低い笹の間をしばらく行ったが、深い原生林に変わる。不気味で薄暗く、倒木がやたらと多い。雪のためだろうか? やっとの思いで錫が岳頂上に着いた。金属の名前が付いているので以前から気になっていた。この頂上に群馬大学WVのプレートが打ち付けてある。群馬大学WVも余程ヤブ漕ぎが好きらしい。ここでビスケットとミカンを食べ、昼飯とする。この錫が岳から西方に尾根が伸びていて笠ヶ岳という山があるのだが登山道はないようだ。

錫が岳から道が徐々に怪しくなってきてきたが、20mおきに赤布が枝先につけてあり迷う心配はなかった。しかし鞍部では笹が深く、時には背の高さ以上になって全く視界がなくなってしまう。そういう所には目印がないので大体の方角を定めて笹の海に飛び込み、向こう岸に泳ぎ着くまでヤブを漕ぐしかない。しかも笹の中には倒木が隠れており、何度も転び、スネも傷だらけになってしまったが痛いとも思わなかった。自分では冷静に行動しているつもりでもかなり焦っていたようだ。

踏み跡は稜線よりも西側に10m程くらい下がったところに付いており、残雪期の縦走にはここが歩きやすいのだろう。宿堂坊の手前の登山道にテントを張った。孤独感からくる不安感もあるが疲れていたし、1日歩いてみて何とか縦走できそうだという見通しもついたのでホットし、良く眠れた。付いてきた犬にも食事を与えた。テントの側に丸くなって寝たようだ。

9月27日(3日目)

テント5:50――宿堂坊7:30/7:35――ヤジの水場7:45――三俣山9:40/9:45――ピーク1850m11:20/11:35――カモシカ平12:35/13:15――国境平13:50/14:05−皇海山16:25/16:35――テント泊17:20

 3時頃起きて昨日の遅れを取り戻す積もりであったが、目が覚めたのは4時20分頃であった。今日はあまりヤブがひどくなく道が分かりやすくて予想よりは楽であったが、実に恐ろしい光景を見てしまった。何と形容すればよいのか見当もつかない。それは松木沢というただ一本の草さえ生えていない死の谷である。足尾銅山(精錬所)の上流にあたる沢で、坑木を切り出したり、亜硫酸ガスで枯れたり、山火事で枯れたりといじめ抜かれた沢で、植林が試みられているが回復していない。

中禅寺湖北岸から南を見ると黒檜岳とその稜線によって松木沢の光景は見えないが、上高地などと並んで日本を代表する風景の襖一枚隔てた向こうは死の谷である。寒気のするような光景を左手に見ながら(午前中は左手に中禅寺湖が見えたのに)行くと広い場所に出た。通称カモシカ平というそうだが鹿の足跡だらけであった。鹿の足跡をたどって行くと水場であった。ここにテントを張りたかったが、それでは明日のうちに帰宅できない。やはり前方にそびえる皇海山を乗り越えて向こう側の鞍部まで行かねばならない。

その先で一休みしているとヤブの中からガサガサという音が聞こえた。猪か熊か? 熊だったらどうしようと思っていると鹿がヌッと顔を出した。きれいな鹿だった。胴に白い斑点があり、角はなかった。犬が追いかけて行ったがしばらくしてから戻ってきた。動物の気配がしても無駄に吠えないのでこの犬は猟犬らしい。

鹿に会った所から標高差500mを登り詰めるとはるかに望んだ皇海山2144mである。しかし例によって眺望はなく、もたもたしていると暗くなってしまうので鞍部めがけて下ったが、倒木が非常に多い。またいだりくぐったりしてやっと鞍部に着き、例によって登山道にテントを張った。今夜はラーメンを作ることにした。飯炊きに使ったコッフェルを洗わずにそのままラーメンを作れば手間と余分な水を使わずに済む。

夕食が終わる頃には既に暗く、寝ることにする。遠くで鹿の啼く声が聞こえる。こんな時、単独行のすばらしさを感じる。大自然の懐に包まれて唯一人山中に夜を過ごし、孤独感と不安感を満喫することこそ単独行の魅力だろうと強がってみるが、犬と行動を共にしているので厳密には単独行とは言えないかも知れない。2日目の朝、前白根の登山道で3人に会ってからは動物にしか会っていない。

9月28日(4日目)

テント6:20――鋸山7:00/7:10――庚申山荘10:15/10:30――参道入り口11:20/11:25――切幹(バス停)14:20――国鉄で帰宅

今日は4時半に起きた。残ったキャベツは鹿の餌に置いて行くことにした。今朝もビスケットとミカンの朝食である。水がないので腕を広げて笹の朝露で袖を濡らし、チューチュー吸って喉を潤した。六林班峠を経て袈裟丸岳、という看板があったが向こうも相当なヤブのようだ。急な坂道を上りきると鋸山の頂上である。名前の通りギザギザで、小さいピークまで含めると15くらいある。この辺からは普通のハイキングコースで道ははっきりしている。

庚申山の頂上は通らずに奇岩絶壁の間を歩いているうちに山小屋に着いてしまった。途中に眼師薬水という水場があったが、ひどい濁り水で、眼を洗ったりすれば眼病になりそうであった。

深田久弥の日本百名山によれば、「皇海山は、南は六林班峠を経て袈佐丸山に続き、北は三俣山を経て宿堂坊、錫が岳、白根山へ伸びている。この長い山稜も道が開かれているのは一部で、あとは藪と戦わねばならない。それだけにまだ原始的自然美を保っている山域であって、『埋もれた山』を探し求める人たちにとって、これから興味の多い舞台となるだろう」とあるが、松木沢の惨状については全く知らんぷりである。なお別な本では、南総里見八犬伝では庚申山は信仰登山で栄え賭場として有名であった、と紹介してある。

この山荘まで下ればもう安心というわけで山ブドウを採って食べながらテクテクと下って行くと、沢の向こう岸にカモシカがいて鼻息をたててこちらを睨んでいる。犬が吠え、突進していったがカモシカは昨日の鹿よりもっと速くて犬が追いつける相手ではなさそうである。(初めてカモシカを見た)

鳥居をくぐると、そこからは砂利道である。ヒッチハイクしようと気楽な考えでしばらく待っていたが車が来ないし、よく見ると道路にタイヤの跡が全くない。これでは待っていてもしょうがないので歩き始めると土砂崩れで道がふさがっていた。少し行くとまた小さな土砂崩れがあった。何度も乗り越えて行くと前方に猿の群がいた。犬が早速向かって行ったが猿は木に登って犬を眺めている。犬は限界を知っているようで吠えるのみ。熊も怖いが、猿の方が始末が悪いだろう。数年前に宇都宮大学の生物研究会との交歓合宿をこの庚申山荘で開いたときに(僕は参加していない)、農学部のMという男が差入れのリンゴを自分達だけで食ってしまい、「ちょっとしたスキに猿に取られた」ということにしたという笑い話を思い出した。

林道を下って行くと国民宿舎かじか荘があり、ここで庭掃除をしていたおばさんと少し話をしたが、実に久しぶりに人間と話しをしたように思った。3時間歩いて、足尾駅の手前の切幹で定期バスに乗り、3日間も一緒に縦走した犬とはきちんとした挨拶もせずに別れてしまった。

足尾駅で列車を待つ間に社員らしき地元の人に鉱害についてどう思うのかと尋ねてみた。(実家の近くの日立市も銅鉱山から発達した町である。煙害対策のために東洋一と言われる高い煙突を建設した経緯を新田次郎が書いている)。その人は足尾が公害の原点のように言われ、日立銅山が公害対策の模範例のように言われるのは不満だと言う。日立は海の近くで下流に田畑が少ないし、煙も西風に乗せれば太平洋に拡散する。足尾(古河鉱業)も同じように努力はしていたが地理的な条件が悪く、対策が困難であったという。

(追記:鉱害とは精錬カスが大雨によって田に流れ込み、この中に含まれる銅イオンが植物の生育を妨げた。鉱害の惨状を明治天皇に直訴した衆議院議員田中正造の銅像が佐野厄除大師の境内にある。鉱害の被害を受けた谷中村は強制的に田畑、家を収容され、跡地が渡良瀬川遊水池となっている。この遊水池は今は関東有数の広大な芦原で熱気球の大会が開かれたりしているが、夕日が特に美しいという)

  方言についてのいくつかの考察                                97.5.27

                                                                 島田 賢治

上田公園に山岳会のメンバ−でお花見をしていたとき、新入会員に「島田さんはどちらのお生まれですか?」と尋ねられた。どうも聞き慣れないアクセントなので、とのこと。

茨城の北のほうで、「海の近く」と答えると「膿の近く」に聞こえると言われ、その後も何か言うたびに「ちょっと変な発音だ」と、すっかり酒の肴にされてしまった。アルコ−ルのせいで茨城訛りが丸出しになっていたことと低予算でつまみが不足していたのが原因らしい。

会社の近くの床屋に予約の電話を入れた後に「申し訳ないが予約がダブってしまって」と職場に電話がかかってきたことがあった。後日、オバさん白状して曰く、電話を切ってから気づいたので困ったが、会社の総務課に電話して「茨城訛りの…」と半分も言わないうちに「あ、その人なら島田さんです」と教えてくれたという。

先々週、望月町から大河原峠までMTBで行ったときのこと。大河原峠の山小屋で昼飯を食べていたら、居合わせた客に「ついてきたのか?」と尋ねられたが、最初は何のことか分からなかった。急な坂で自転車を押して行くのを「自転車を引く」ということは知っていたが、「突く」とも言うことを信州に住みついて23年目で知った。

茨城では、目上の人には「差し上げる」、同格かやや上だと「あげる」、目下には「やる」、犬猫には「くれる」と使い分けるが、ここ上田辺りでは「くれる」を多用する。茨城では友人から「これをお前にくれる」と渡されたら、受け取らないばかりでなく「馬鹿にするな」と怒るだろう。「くれる」には他人を小馬鹿にした響きがある。娘たちにも「くれる」は猫にエサを与えるときと、花や木に水をやるとき以外には使わないよう繰り返し注意している。

次女がこの春から中学校に通っている。テストの前などに漢字の書取をするから読み上げてほしい、と言われた時が困る。同音異義語で緊張してしまうのだ。「原田さんが腹田さん」にならないように気をつけなければならない。彼女はアクセントには敏感でかつ手厳しい。

中国語には四声というのがあって、例えば「ス−」でも上がる、下がる、変化しない、下がってからまた上がるというようにして意味を区別しているらしい。手もとにNHK編の「日本語発音アクセント辞典」があるが(何であるんだ!)、巻末のアクセントの分布表によると茨城、福島、栃木、九州の宮崎、熊本の北部などがアクセント崩壊地帯となっている。この崩壊地帯に生まれた人が中国語をマスタ−するのは至難の業ではないだろうか。中国語だけではない。尻上がりのイントネ−ションであるから英会話にしても肯定文が疑問文になってしまいがちで、通訳などの職業にも不向きであろう。

先日、TVで若者の話し言葉を取り上げていた。明瞭なアクセントが無くなって平坦化しているという。特に最初にアクセントを置く単語は茨城県人以外でもやはり発音しにくいらしい。「標準語が茨城弁に近づいてきた。我が茨城弁は進んでいたのだ」と言ったら、「一周遅れ!」とカミさんに一蹴されてしまった。

茨城弁の第三の特徴は誰彼なく話しかけること。個人差が大きいので性急な判断をすることは避けるべきだが、あの「デ−ブ大久保」みたいなのが多い気がする。(バランスのために立花隆も水戸の出身であることを付け加えておく。また第一の特徴はアクセントとイントネ−ションであり、第二は語尾に「っぺ」をつけることであるが、論じる価値がないので割愛する)

職場の後輩で、秋田大学出身のK君には茨城出身の友人がいたらしい。そのK君は茨城弁の第四の特徴を完全に把握していた。すなわち久しぶりで顔を合わせた場合などの「とりあえずの話題」の選び方である。つまり、自分に不都合なことがあったとか困った状態にあるということを「取りあえずの話題」として提供することがどうも多い。勿論聞かれもしないのにである。

「隣の不幸は鯛の味」という心理を逆に応用して話相手を喜ばせようというサ−ビス精神であろうと僕は解釈している。(別に同情してほしい訳ではないことに注意)勿論、お天気などの話題から始まることは多いし、誰彼なく自分がどれほど不幸で、不運であるかを喋るわけではない。

「いゃ−困っちゃったよ−」(このときは『っぺ』はつけない)とそのK君は上手に真似をしてみせた。確かにその出だしで会話を始める人は多いような気がする。しかし、一年中困り、嘆くことで相手に優越感を与える人が尊敬されるであろうか? 果たしてその茨城出身の友人は完全に馬鹿にされていた。

僕の方言コンプレックスはちょっと異常かも知れないし、考察は以上です。

(「異常」ハ イツモノヨウニ ハツオンシ 「以上」ハ サイショニ あくせんと ヲ オクコト)

 母と行く沖縄の旅                                  00.02.14

                                    島田賢治

母と沖縄に行って来た。母を誘ったのは父が入院して1年近くになるためである。母にも気分転換が必要だし、辰年生まれなので行程のきつい旅行は今のうちに、と思ったからである。

2月7日(月)

上野駅の常磐線特急のホームで母と待ち合わせて、山手線に乗り換え、浜松町に向かう。電車の中で茨城弁丸出しで話しをするので少し閉口した。

羽田空港の近ツーの窓口でクーポンとエアチケットを受け取ると幸先良く窓際席で那覇空港近くでは沖縄の澄んだ海が見えた。沖縄観光の閑散期なので旅行代金は安く、ホテル2泊、往復航空運賃、レンタカー込みでなんと4万円であった。オンシーズンの暑い時期に行くと冷房と酷暑を交互に繰り返すことになって年寄りにはきつく、むしろ少し寒い方が帰ってからも身体に変調を来さないと思う。

レンタカー付きの旅行なので着陸後すぐにレンタカーの営業所に行き、ナビゲーター付きのスターレットを借りる。曇り空なので少し寒く、ヒーターを効かせる必要を感じたが、街路樹がやはり南国らしい。

空港から北上し、100m程の明治橋を渡り、那覇の中心部を通り抜けたところに我々の泊まる那覇東急ホテルがあった。昨年、高校生2年の長女(朋子)が修学旅行で泊まったというホテルの隣りで、このホテルにも修学旅行の高校生がたくさんいたが、エレベーターで乗り合わせると挨拶するし、案外礼儀正しい。聞いてみると奈良とか三重から来ていた。この時期は修学旅行が多いようだ。

母には疲労回復のために昼寝(夕寝?)をすすめ、僕はロビーに下りていって、土産屋で泡盛の試飲をしてみた。ボトルのデザインとネーミングがいかにも沖縄の泡盛らしいが、香りが弱く飲みやすいが個性がなく少しがっかりした。隣にはハブ酒が何種類も並んでいて、立派な蛇が入っていると1万円くらいする。聞きもしないのに店員が「飲み終わったら酒を注ぎ足せばいいんですよ」、その後「蛇がボロボロになるまで何回でも飲めます」と言う!!!おいおい冗談じゃないよ。

注1:沖縄では昔からタイ産の米が輸入できる。熊本の球磨焼酎(原料は米)と泡盛が異なる点は、日本酒で使う白麹菌ではなく、黒麹菌で麹(こうじ)を使うこと。沖縄の友人に聞くと、25年ほど前の泡盛は芋焼酎を飲み慣れた鹿児島の人でさえ飲めないほど臭かったらしい。臭いを取るには温度を下げ(冷凍温度くらい)、臭み成分の脂肪酸だけを凝固させてろ過分離する。ちなみに芋焼酎は貯蔵タンク内で浮いてきた脂肪酸を掬い取る方法なので臭いがやや強い。しかし「臭い」というより「匂い」というべきフルーティな香りで、宝焼酎に梅干しを入れてお湯割りで飲んでいる人には切り替えるようお勧めしたい。

 注2:泡盛の「10年もの」とは10年間熟成した古酒がブレンドされているという意味である。密閉できない瓶で10年も熟成させていたらアルコールが抜けてしまうので、少しづつ飲みながら若い酒を注ぎ足すのが泡盛独自の熟成法だが(老舗の秘伝のタレみたいだ)、熟成年の呼び方は国際的には通用しない。沖縄のローカルルールであることは自覚しているようで、空港売店にはブレンドに使った最も若い原酒の年数で表示している高級泡盛も売っている。

部屋に戻ると、母は昼寝をしなかったようで「別に疲れていないし、腹もすいた」と那覇の夜に期待している様子であった。タクシーで国際通りに行き、牧志公設市場から観光スタート。閉店(夜8時)間際なので地元の人は少なく、観光客が多かった。ニシキ蛇の皮でつくった三線(さんしん)やイラブーという海蛇の真っ黒な薫製など珍しいものがあるし、トロピカルフルーツも東京の果物屋より種類が多い。豚肉は大きなブロックで売っている(冷蔵庫のない時代に薄切りにして店に並べていたら雑菌が繁殖してしまう)。面白がって豚の顔の皮(チラガー)の薫製を買った。(土産として持ち帰ったが、持て余し気味で冷凍庫に入れたままである)

魚屋では「伊勢エビと魚(真っ青な熱帯魚)をここで買って、2階のレストランに持ち込んで…・」と商売熱心であった。結構高くて6,000円以上もするし、母が袖を引っ張るので止めておいた。

地ビール・ヘリオスの直営店に入り、3種類のビールを飲みながら琉球料理(ニガウリやヘチマの炒め物、紫色の紅芋を揚げたもの)を食べた。店の雰囲気は良かったがビールはB級であった。この地ビール屋にはホームページもあるが、観光案内(地図)では無視されており、意外であった。たいてい地ビールは観光の目玉扱いで、観光パンフレットには優先的にのせてあるものだが。

2月8日(火)

今日は那覇から国道58号線(西海岸沿い)を北上し、北端の辺戸(へど)岬から東海岸沿いに山原(やんばる)の道を南下して戻ってくる予定である。

最初は素朴な「琉球村」。製糖のコーナーでは、砂糖黍(キビ)を搾汁する機械を水牛がぐるぐる回している。牛より蹄が大きくて湿地に適応しており、体毛が少し長目で密生していないのは熱帯の気候に適応しているようだ。オバさんが杖で地面をトントンと突きながら一緒に歩くが、時々休んでしまう。気の短い人ならば地面の代わりに水牛の背中を叩きたくなるような遅いペースだが、これは沖縄に適応したのかも知れない。

毒蛇ハブとマングース(イタチくらいの大きさ)の「決闘ショー」は間近で見た。ハブが攻撃した直後にその瞬間を待っていたマングースに逆襲されて負けた、ように見えた。敗者は焼かれて粉になり、健康商品(精力剤)に変身する。マングースはハブの駆除にインドから導入されたそうだが実際には役に立たず、農作物を荒らすので今では駆除対象になっている。マングースが負けたという話は聞いたことがないと沖縄在住の友人は言っていたが、インターネットで見るとマングースが負けることもあるらしい。ハブは夜行性だし、今は気温が低く、不利な条件で戦わされていることは確かだ。

人気ナンバーワンの岬、万座毛(まんざもう :「毛」は芝生のこと)は東シナ海から吹き付ける猛烈な風とシブキで見物どころではなかった。ちなみに長女の修学旅行のとき(11月)も雨と風でひどかったという。東シナ海に沈む夕日を眺めながら泡盛とラフティ、ゴーヤチャンプルーで宴会を開けば最高だろう。ただし、泡盛で酔うと足がフラツクので崖から落ちないように注意しなければならない。

部瀬名(ぶせな)の海中観察塔は、直角に突き出した桟橋を100m程を進んでから螺旋階段を下りて行く。丸い部屋の周囲に直径40cmの丸窓がいくつもあって水面下4mの海底が見えるようになっている。この観察塔は、海が荒れていてグラスボートが出航しないときも海中観察ができるし、忙しい行程のときには短時間で済むのもメリットである。魚や海底の様子をじっくり観察できて案外面白いが、残念ながら珊瑚礁ではなくきれいな色の魚はいなかった。

ブセナホテルの近くの中華レストランで昼飯を食べた。琉球料理は珍しい物はあっても特に旨いというものはないので、迷った時は中華が良いと思う。(追記:ここは先日沖縄サミットの会場になっている)

名護(なご)より北は海岸に山が迫って平地は殆どなく、小さな集落が時々現れるだけである。亀甲墓という中国系の海の民スタイルのお墓がある。石塔を建てる内地式のお墓はないし、お寺や神社もあるのかないのか見かけなかった。

自転車旅行者をよく見かけた。ロードレーサーで軽快に走っているグループやマウンテンバイクにキャンプ道具をくくりつけて走っている単独ツアーもいた。西海岸は風が強くて走りにくく、東側のコースも山原(やんばる)では標高差100m以上のアップダウンが続くのでかえって楽ではなく、登りの高度差だけを足せば1,000m以上になるかも知れない。ついでに言うと沖縄は自転車通勤に適していないようだ。雨が突然降るし、坂も多く、道も狭い。結局、バスとオートバイ通勤が多い。

北のはずれ、辺戸岬は石灰岩の台地で鹿児島県南端の与論島が良く見えた。風が強くて寒いので早々に退散する。沖縄本島北部の山地がいわゆる山原で標高400mm程度のイタジイの密林。ほとんどが米海兵隊のジャングル戦の訓練場である。また沖縄では水資源が貴重でこの山原のダムから中南部に水を送っているそうだ。

偶然看板を見つけたので電源開発(株)のヤンバル海水揚水式水力発電実証試験施設に寄り道した。海岸近くの台地に上ダムを作り、余剰電力で海水を汲み上げてためておき、電力需要のピーク時に発電する方式の実証試験である。説明ボードによると池はゴムシートで防水してあり、海水が漏れたりしない(はず?)とのことであった。東京などの大需要地の近くに作ることを想定しているようだが、そうなると房総半島先端にでも建設するのだろうか。電力は我々の生活と産業に不可欠であるが、環境問題との関わりが深い。風力発電でさえ場所によっては景観と騒音が問題になってしまうのであるから、安定供給の責任を負う側は選択肢が少なすぎて気の毒である。

慶佐次(けさじ)湾のヒルギ(マングローブ)の群落は見たいと思っていたものである。これは淡水と海水が交じる汽水域で生育する植物である。潮が引いていたので独特の根が良く分かった。遊歩道があるので奥の方まで行ってみたかったが、時間がなく、展望観察台からチョット見ただけ。

宜野座(ぎのざ)から高速道路に入って那覇まで一気に走り抜けた。高速料金は内地の半分くらいであろうか、随分安い。のんびり走る人が多く、ガンガン飛ばす人はいないようだ。那覇I.C出口で道を間違えて首里城辺りをウロウロし、やっとホテルに戻る。首里城の中を見たいと思っていたが6時門限で間に合わず。今日は300km程の走行距離であった。

大学時代のサークルで同期だった松井君は県庁(畜産課で養豚担当)に勤務している。8時にホテルまで迎えに来てもらい、居酒屋で25年振りに旧交を温めた。珍しいものを食わしてくれと頼み、豆腐ヨウ、豚の耳、田芋、海ブドウ(海草の一種)などをご馳走になった。泡盛はお湯割りではなく水割りが正しい飲み方だが、最近は内地式のお湯割りが多くなってきたという。

2月9日(水)

今日は南部戦跡を回る予定である。道が複雑そうなのでナビゲータの取り説をよく読んでから出発。最初は玉泉洞王国村という鍾乳洞。ここにはガラス工芸、熱帯の果樹園(これが面白い)、織物なんでもあり。鍾乳洞内に泡盛を熟成させる貯蔵庫があり、個人名義の酒が預けてあり、他人事だが心配である。広口の壷なので早く飲まないとアルコールが飛んじゃうよ、と。

ひめゆり平和祈念館では母が献花をしてゆきたいと言う。「沖縄で花をあげれば気が済む」と。母の兄は特攻隊員として鹿児島県鹿屋基地から4月6日に出撃しており、沖縄には墓参りのような気持ちで来たという。

注3:「ひめゆり部隊」とは、陸軍病院の看護婦として徴集され、看護や危険な雑用に従事した師範学校女子部と県立一高女(併置校・ひめゆり学園)の学徒221名で、そのうち194名が犠牲になった。沖縄戦が終結する直前に野戦病院が機能しなくなったために解散命令が出されたが、それから一段と悲惨な運命をたどるのであった。沖縄全土の学生はいうに及ばず子供から老人まで戦闘に動員され、犠牲者が多数出ている。

参考図書によると沖縄戦の経過は、昭和20年4月1日に米軍が那覇北の北谷(ちゃたん)、読谷(よみたん)から上陸。4月7日頃から40日間にわたる激戦を繰り広げた。勝利した米軍にも戦死者が多数出た他精神障害を来す者が多かったという。この戦闘で日本軍は主力を失い、5月25日頃には首里城にあった陸軍司令部が陣地を放棄して南部に移動。しかし、首里城が陥落すれば戦闘は終わると信じてガマ(鍾乳洞)に非難していた住民は味方のはずの軍人によって命の危険にさらされるという地獄の始まりであった。沖縄戦は、米軍を沖縄に釘付けにして本土防衛の準備期間を稼ぐ必要があったので玉砕は固く禁じられており、牛島司令官が自決前(6月23日が沖縄戦終結の日になっている)に出した「最後の一兵にいたるまで敢闘し悠久の大義に生くべし」という最後の命令に沖縄を捨て石に使うという中央の思想が現れているという。

注4:長野市松代町には皇居や政府機関、大本営などを移転しようとして掘られた地下壕があり、戦争の遺跡になっている。「本土防衛の準備時間を稼ぐ」というのはこの松代大本営の工事かも知れない。余談になるが、松代の地下壕の案内人(管理人)に質問してみると、西松建設の作業者の扱いがひどかったらしい。(他の建設会社が担当した工区では普通に給料をもらって働いていた。当時の土木や炭坑、鉱山などの現場はどこも危険で劣悪な条件であったし、現代と比較して論じてはならない)。

最後に海軍の司令部壕に行った。豊見城(とみぐすく)の住宅地の細い道を登って行く分かりにくい場所である。駐車場がちょっと狭いので、観光シーズンには要注意。沖縄本島は全部石灰岩台地だと思っていたが、この地下司令部は軟らかい砂岩で掘りやすかったようだ。川を挟んで向こう側の丘が陸軍司令部のおかれた首里城で手に取るように見える。

海軍司令部壕への攻撃は6月6日に始まり、最期を覚悟した大田司令官は東京の海軍次官あてに異例の電文を発信した。内容は昭和20年6月15日の内地の新聞に発表されたが、県庁も、陸軍も通信不能になっているので海軍が代わりに報告すると始まり、一般住民や学生がよく軍に協力した様子が詳しく記されている。結びの言葉で「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜わらんことを」とある。ひどい話だが、沖縄の人は移民でハワイと行き来があったり、沖縄の方言が内地出身の兵隊には理解できないためにスパイの疑いをかけられることがあり、これを否定したものでもある。

那覇空港内で、昼飯には何を食べようかとあちこちのレストランを見比べてからイタリアンレストランに入った。母は「イタ飯」と聞いて「炒め飯」と思ったという話で大笑いしながら、水っぽいオリオンビールを飲んで、沖縄に別れを告げる。

           おわり

サイクリング&クライミング「蓼科山」                             98.5.2

島田賢治

自宅から登山口の大河原峠までMTBで行き、続けて蓼科山の頂上まで登ってしまうというサイクリング&クライミングを昨年から考えていたが今年が最後のチャンスのような気がした。

4月30日

ここ数日、風邪気味であったが、天気も良さそうだったので今日決行することにした。自宅を6時50分に出発。近所のコンビニで食料を買い込む。(赤飯おむすび、カステラ、ドラ焼き、ミニ羊羹。)昨年、望月から大河原峠まで春日渓谷の林道を登った時はあんパン1個しかなく、沢の水を飲みながら登った(望月の町はずれまでMTBを送ってもらったため、コンビニも雑貨屋もなかった)が、今回は十分に仕込んだ。

コースを説明すると立科町芦田を経由して県道40号線を行き、荒井戸から左手の小さな尾根を越えて八丁地川沿いの道に入り、虹の平林道経由で登った。

虹の平林道は長くて急な坂道であった。恥も外聞もなく(交通量ゼロだから誰も見ていないが)時々押して登った。歩くと筋肉がほぐれるので長丁場では却って疲労回復に効果的かも知れない。途中、西側の長門牧場や霧ヶ峰などが良く見える場所がある。さらに登ると今度は東側に出て、蓼科山がおおいかぶさるように大きく見えるようになる。女神湖から登ってくる有料道路の夢の平林道と合流(去年の秋に舗装工事が完成している)すれば大河原峠まであと少しだと思っていたが、そこから案外遠く感じた。

大河原峠着13時2分。自宅から6時間、約50kmであった。大河原ヒュッテに宿泊の申し込みをして、MTBをデポし、直ちに登山を開始する。樹林帯のなかは残雪が50cmくらいあってスニーカーでは歩きにくいし、日当たりの良いところは雪解けでぬかっている。いつもなら1時間ちょっとで登ってしまうのであるが疲れがピークに達しており、頂上(ピーク)にはなかなか達することができなかった。頂上着15時ちょうど。自宅からの標高差2,050mを達成した。

天気が良く、空気も澄んでいたので北アルプスの峰々はほとんど同定できた。御柱祭りで賑わうであろう(里曳きは5月3−5日)諏訪の町も見える。

スニーカーの中に雪が入ってしまい最悪であったが、何とか転ばずに小屋に戻る。16時30分。約10時間に及ぶ行動が終わった。

下山しようと思えば下り一方なので、暗くなる前に自宅に着くだろうが歳も歳だし無理は禁物。

連休でも宿泊客は僕だけであった。2年に1度のペースでネパールに行くという主人にヒマラヤトレッキングの話を聞かせてもらう。2週間のトレッキングが25万円(総額)だという。代理店にはエアチケット(11万円)の手配だけを依頼し、案内人無し、泊まりは茶屋の二階で、食事はすべて現地食だそうだ。

夕飯のメニューは焼き肉と天ぷらであった。「腹一杯になったか?」という質問の意図を知らずに曖昧な返事をしたらご飯は出なかった。宿泊を申し込んだときにわずかながら困惑の色を浮かべたのは飯を炊くのが面倒だったから(?)、それとも飯より酒が好きな客であるのを見抜いたか。居酒屋で夕飯を食べるような妙な感じであったが行動食の食べ過ぎで空腹は感じず特に不都合はない。疲れていたので小屋の主人との酒盛りは22時頃に切り上げる。宿泊は2食付きで7000円。ビール以外の酒はおごり。

食堂に飾ってあるピッケルは「仙台山之内」の作品である。日本刀のような線でバタ臭さがない。(珍しいので見せてもらうと良い)

5月1日

明日のコースを思案しているうちに大石川林道のことを思い出したので主人(八ヶ岳の救助隊の隊長も兼務)に林道の状態を聞いてみるとオートバイでは無理だが自転車なら大丈夫という。要するに落石と崩壊で荒れているが悪いところは担いで通過しなさいと。

大河原峠を7時30分に出発。東に向かって少し下ると大石川林道の入り口があり、例によって「通行禁止」という看板がある。雪解け直後で路面が緩んでいるせいか抵抗が大きくスピードが出ない。そしてカボチャ大の石がゴロゴロと浮いており両側から笹がおおいかぶさっている。

双子池近くの三叉路は直進方向(大石川林道を通って麦草峠方面)が封鎖されていたので左折して下る(大岳林道)。こんなに荒れた道は見たことがないが、フロントサス(CANNONDALE F700)だからグリップも良く転倒せずに下れた。サスペンションなしでは腕がしびれてしまう。

10km位下ったところで湯沢を横切るが、小さな砂防ダムの堰堤上を通過するようになっていて橋はない。靴を脱いで渡渉することも考えたが15cm程なのでギアを軽くして一気に通過。水に限らず雪やぬかるみは乗ったまま通過した方が良い。

砂防ダムから下は快適なダートでスピードを出せる。大河原峠から14km、標高差で1,000m下ってやっと民家があらわれる。鯉のぼりがはためくなかをどんどん下って、佐久町に出た。

千曲川の堤防の道を行く。透明感が高くて水量も多く川遊び(カヌーやラフティングetc)には気持ち良さそう。滑津川との合流点に水力発電所の大きな調整池があり、周囲が野鳥公園になっている。五月の風に吹かれつつ芝生で昼寝をしてから、千曲川左岸沿いに下って自宅着13時。2日間の走行距離は120kmであった。      

追記(菅の沢林道)

先日の蓼科山の疲れが出て未だにだるい。自転車の疲れは自転車でとるのが却って効果的かも知れないと思い、天気もいいし菅平にでも行くか。

5月4日

真田の大庭に電鉄の駅跡があり、車をデポする。ルーフからMTBをおろしてここから出発。標高680m。8時45分発。

走り始めてみると意外にだるさはなく、重いギアが踏めるのでグイグイ進む。大倉という部落の先の舗装が切れるところで一休みするのがいつものパターンであるが、休まず通過する。

林道は新緑のトンネルになっており、昨日の雨で砂利道が締まっている。時々オフロードバイクが追い越して行くが、数える程で、渓流の水音を聞きながら無心にペダルを漕ぐ。峠が近づくと遠望が利くようになって蓼科山がくっきりと見える。やっぱり遠くて高い。

峠手前の最後のカーブが登りの終点(峠は巻き道状ではっきりしない)で10時29分着。標高差で800m。1時間36分。全く足を着かずここまで一気に登ったのは初めてである。

           おしまい

隣町の博物館のこと                       97.3.17(Rev00.9.20)

島田賢治

古代の生活技術を再現する研究を実験考古学というそうですが、隣町の博物館でも面白い体験ができるので紹介します。

1.武石村ともしび博物館

http://www.vill.takeshi.nagano.jp/midokoro/tomosibi/taikenn.htm

行灯(あんどん)や珍しいろうそくなどの照明器具が展示されていますが、面白いのは火おこし体験です。摩擦法と火打ち石にトライし、両方とも上手くゆきました。愚妻もトライしてみたのですが、腕力不足でうまくいきませんでした。

摩擦法はテレビなどで時々紹介されますが、簡単ではなくノウハウが必要です。摩擦熱だけで発火すると思いがちですが、圧力をかけながら杵(きね)を回転させて、高温の木の粉を作り、酸化反応熱でさらに温度を上げ(お灸のような状態の火種)、硫黄のついた付け木で炎をつくる(発火)ものです。

臼(うす)は杉の板などの端に浅く彫って、粉が集まるように縦の切り込みをつけておくのですが重要なポイントがいくつかあります。板は厚すぎないこと(粉が下に落ちるまでに冷えてしまうので1.5cm位がよい)、また摩擦でできた木の粉の温度を下げないように切り込みの角度は90度くらいが良いこと。角度が狭過ぎると板との接触で熱が奪われがちで、広過ぎると表面積が広いために放熱が多い。

また、杵は普通の木だと回転軸中心部の切削速度が遅いために切り込みが進まないのでウツギなどの芯がない木が適しており(これが重要なノウハウ)、ザクザクと木の粉が発生します。

火起こし体験は「舞いぎり」法で(はずみ車の軸にひもをまきつけておき、両端を横棒を結んでおいて棒を上下させるとはずみ車が左右に回転する)でやったのですが、木工細工で使う「もみぎり」のようにシンプルな道具で火をつけるには熟練が必要とのことでした。

火打ち石法は鋼と石をぶつけて火の粉(打撃で削り取られた鋼の微小片は加工熱による温度上昇があり、新しい表面が露出して酸化反応が進むことでさらに温度が上がる)を作って炭の粉の上に落とし、フーフーして火種を大きくし、付け木で発火させる方法です。鋼には火の粉が出やすい種類を選び(刃物用の高炭素鋼がが良い)、石は硬ければ何でも良いとのこと。炭の粉は綿花を蒸し焼きにし、軽く圧迫して作ったものが良いそうです。

最後に、指導してくれた学芸員さんが硫黄の付け木を使わないで、火種を細く裂いた葉で包んでビュンビュンと振り回して発火させる実演をやってくれました。振り回すと風が連続的に送られるので(酸素濃度もやや高い)断続的にフーッ、フーッするよりも発火しやすいようです。

火を起こすのは結構大変なので一度起こした火(オキ)は木灰に包んで保存したり、持ち歩いたのではないかと想像しました。

2.長門町古代生活体験館

本物の黒曜石をつかって鏃(ヤジリ)とかペンダントを作る体験ができます。(縄文土器を作るコースもあります) なお石器作りに関しては隣の和田村の黒曜石博物館のVTRでも詳しく見ることができます。

丸い黒曜石から剥片を切り出す時は鹿の角の先端をあてがっておいて叩きますが、刃を付けたり、形状を整えるときは鹿の角を強く押しつけて縁を少しずつ欠くようにします。体験館では鹿の角ではなく、棒の先に直径3mmくらいの銅線を差し込んだ彫刻刀のようなものを使っています。あまり堅すぎないもので押すようにするのがコツのようです。(この体験作業は飽きます。はっきり言うと)

鏃といえば弓を連想しますが、農業が始まる前の日本には見通しのきく草原は河原などごく一部で、ヤブだらけの原始林では音はすれども姿は見えず、弓は使えなかったはずとのこと。大型動物を捕獲するには落とし穴に追い込む方法だそうです。2列に掘られた深い穴の跡が発掘されているので、単なる想像ではないとのこと。

青森の三内丸山遺跡に巨大な櫓(やぐら)を再現したというニュースがありましたが、太い木をどのような方法(道具)で切り倒したのかと思います。群馬県桐生市近くの「笠懸野 岩宿文化資料館」には棒に溝を切って黒曜石の破片を列状に埋め込み、ヤニ(新潟の原油が出る地域でとれる天然アスファルト)で固定した原始ノコギリが展示されていましたが、僕は蔦(つた)や蔓(つる)の繊維でロープを作り、砂(研磨剤)をまぶしながら糸ノコギリのようにして切ったのではないかと想像(空想)しています。

何かの本で読んだことですが、ニューギニアの奥地の石器時代のまま生活している現地人が石斧で、調査隊は鋼鉄製の鉈で木を切り倒す競争をしたところ、石器が勝ったそうです。

原始人は道具に頼らないで体力(と気力)で課題を解決していたのかも知れない。道具に頼りきるどころか、道具を比べて自慢したり引け目を感じたりするマウンテンバイカー諸君。今こそ覚醒せよ!(目覚めるべきは著者だったりして?)

                                                おしまい

標高差1,400m(公称)に挑む「マウンテンサイクリングin乗鞍」報告   94.10月号より

                                   島田賢治

概要:乗鞍高原の観光センターから鶴ヶ池手前の県境の峠までの標高差1,320m、距離22kmを一気に駆け上がるヒルクライムレース。参加者総数は3,500名、参加資格は特に問われない。トップレーサーは1時間以内で走りきる。今年で9回目、8月27日(受付)、8月28日(レースと表彰)に開催された。

8月27日

観光協会前の駐車場に着くと、レースの受け付け(エントリー)が始まっていた。自転車のレースそのものが初めて見る光景であり、その熱気に圧倒される。しかしウイリーをやってみせるようなお調子者を見かけなかったので、やはりこの大会はヒルクライム専門の人が集まるのだと納得する。初秋の高原で気持ちよさそうにサイクリングしている人もいるし(都会から来れば別天地であろう)、上位入賞をねらう人(?)は本番と同じ場所からスタートダッシュの練習をしてスピーカーで繰り返し注意されていた。再び事故があれば大会そのものが開催できなくなる。

宮本君の友人の浅井君と予定通り合流したが、彼は棄権とのこと。都会暮らしで練習してないという理由であったが、最近、結婚を控えて独身寮を出たそうで、要するに別な方面の練習が忙しかったらしい。

一ノ瀬キャンプ場は駐車場から遠いのでリアカーが用意されている。リアカーの取っ手をMTBのシートステー部にゴムバンドでくくりつけて引っ張って行くやつもいたが、我々は駐車場にテントを張るのでビールを飲みつつ暗くなるのを待った。(駐車場はキャンプ禁止)

8月28日

レース当日。天気は最高。バナナをボトルケージにくくりつけていざ出陣。バナナには果糖が含まれており、腹持ちと吸収のバランスが良いのでスタート前に食べるのである。ボトルにはスポーツドリンクの水割りを詰める。濃度を下げておくのは水分とミネラル分の吸収を考えたものである。

観光センターの駐車場でクラス別に整列してスタートを待つのだが、見回すと外車が多いし、材質もアルミ合金かCFRP(炭素繊維強化プラスチック:通称カーボン)が主流である。クロム鋼の自転車と比べて2kgくらい軽いだけだが値段が数倍違う。走り始める前から劣等感を感じてしまう。

僕たちのスタート時刻はチャンピオンクラスよりも24分遅れなのでスタート風景を観客にまじって見た。ロードレーサーが猛烈なスタートダッシュのあと左コーナーに密集状態のまま吸い込まれてゆくまで僅かな時間であったが、これはみものであった。ロードレーサーはMTBよりクランクの半径が大きいので脚の動きがダイナミックである。後のことも考えず(?)スタートダッシュするのはレーサーの闘争本能か?

次のスタートは女子の部。最前列の選手は勢いよく飛び出してゆくが後ろの方はお買い物にでも行くようなスタート風景。

僕は浅井君の見送りを受け最後のグループでスタートした。(宮本君は3分前にスタート)MTBの連中はノンビリ行くと思っていたのが間違いであることをいきなり思い知らされたが゜焦ってはならない。まずは完走だ」と自重する。

3kmも行くと早々とリタイヤした参加者がいた。シニアクラスで参加している年配組であろうか。精神力だけでは登れないのがヒルクライムレースである。若い選手でも早々とリタイヤした連中が同じクラブのメンバーに「休んでいけよ」と誘惑(応援?)していた。

昨晩隣でキャンプしていた人から「お先に!」と声がかかる。ジャージにTシャツという格好は逆に目立つようだ。ママチャリで出場しているのが2台いたので「通勤用のですか?」と聞くと「その通り」という答えであった。しかし走りっぷりは今市で、完走できたかどうか。抜きつ抜かれつしているうちに半分の11kmまで来たので完走の見通しがつき、余裕が出てきた。高そうな自転車を追い越すときは「その自転車はいくらした?」と聞いたりしたが、相手は余裕がなさそうで「鉄の自転車」に追い抜かれたことに気が付いたかどうか。ロードレーサーは専用の靴で漕ぐものだが、ロードレーサーを押している人の靴がスニーカーだったので「歩きやすそうですね」と冷やかすと「こんなことになると思っていたから普通の靴で来たんだ」と言い張っていた。

森林限界を抜けて高山帯に入ると見晴らしが良くなり、この春に山スキーに来てあまりの強風のために途中で下った辺りも良く見えた。そのとき一緒だった宮本君にこのサイクリング大会の事を聞いたのだが自分が出場するとは思ってみなかった。最終コーナーを回ってゴールが見えてからダンシングでがんばり、少しだけ順位を上げ1時間58分でゴール。宮本君は1時間43分。

     筑紫次郎と邪馬台国                                          ’99.6.19

                                                       島田賢治

筑紫次郎(筑後川)は九州を代表する河川である。奇妙なことに広辞苑では源流が二つあるような記述である。九重山地の玖珠川と阿蘇外輪山北側から流れる大山川が日田盆地で合流して三隈川と名前を変えるのは両者が源流を主張して譲らず、いわば「本家と元祖」のような争いがあったのかも知れない(建設省では大山川を本川としている)。しかし三隈川を名乗るのはたった12kmで、福岡県境に達すると筑後川と名を変える。久留米の手前から広々とした平野の中を流れて行くが県境が蛇行(?)しているから筑後川の右岸が佐賀県とは限らず、福岡県も交互に現れる。筑紫次郎は複雑な家庭で育ち、波瀾万丈の人生を送って、浮き沈みの多い有明海に注ぐのだ。(有明海は干満差が日本一大きい)

九州本島の最高峰は九重(くじゅう)山地の久住くじゅう)山、標高1788mとされていた。その後浸食が進んだため山頂の三角点標石を埋め直した結果、以前より1m程低くなり、また隣の中岳の方が少し高い(1791m)ことがわかって最高峰の地位を明け渡すという苦汁(くじゅう)をなめた。なお山名をめぐる争いは深刻であったので国立公園の名称は、ひらがなで「阿蘇くじゅう国立公園」となっていて火中の栗を拾うような愚を犯していない。

地名がややこしいのは山だけではない。温泉と駅名は「由布院」で、高速道路、地ビールと町名は「湯布院」で、特急列車は「ゆふいんの森」である。(由布院町と湯平(ユノヒラ)町が合併して湯布院町となったらしい)

「ゆふいんの森」号のコンセプトはヨーロッパ風リゾート特急で塗装色は深い緑色。なお由布院駅には改札のゲートがなく、この点も日本離れしている。なお乗客は殆ど女性だからJR九州は眉目秀麗な車掌を選抜して配置している。これはイタリア国営のアリタリア航空の営業戦略(スチュワーデスの代わりにハンサムな男性客室乗務員を乗務させて日本女性のイタリア旅行熱を煽っている)から学習したらしい。

客車のデッキの構造もリゾート特急らしく工夫されているが、細かいところでは小テーブルが2種類付いているのが面白い。肘掛けに折り込まれている小テーブルは座席を向かい合わせにしたときに使うもので、4人グループで旅行するときには最高で、麦焼酎水割りなどの飲み物を置く場所に困らないだろう。しかし線路が悪いためか揺れが大きく、こぼれるのを心配して常にグラスに手を添えていると、口に運ぶ回数が増えてしまうだろう。

初めて日田を訪れたのは去年の冬で、広い道路に欅が植えてあり美しい街だという印象を受けたが、仕事で何度も訪れるうちに見どころが随所にあることが分かってきた。

ここは幕府の直轄領(天領)で岡山県以西を管轄していたというから、当時は西日本の行政の中心地であり、年貢の運用を任されていたから経済力もあった。筑後川を舟で下って有明海を渡れば長崎まで遠くないし、峠を越えて別府に出て、豊後水道を渡り瀬戸内海を行けば大阪、京都に至る。また急峻な山に囲まれているから外敵(外国)から攻め込まれないことは想像がつく。日田は日田杉で知られる林業の町で、林業高校(今年も甲子園に出場した日田林工)もある。

本荘金物店は山仕事に使う刃物なら何でも揃いそうだ。鎌、鉈、斧というような分類だけでなく刃の重さ、柄の長さなど種類が多い。鉈などは冬用、夏用と注文できそうだ。夏用は切れ味重視の硬い刃で、冬は刃が欠けやすいので靭性優先とする。剣鉈は猪狩りに行くときに携帯するやつで刃渡りが30cm程あり、先端はナイフのように尖っている。柄の角度が付いていないのものは危険な匂いがする。

日田駅の裏手に「咸宜園」という史蹟(秋風庵が復原されている)がある。学者廣瀬淡窓が1805年に開いた私塾で高野長英(蘭学者)、大村益次郎(陸軍を作る)、上野彦馬(写真術の開祖)などを輩出し、明治30年に閉塾した。(藩校ではなかったので全国から生徒が集まった)

「鋭きも鈍きもともに捨てがたし鑿(のみ)と槌とに使い分けなば」という歌が残っており頷けないこともないが、リストラ旋風が吹き荒れる現代社会にあてはめてみると如何であろうか。鑿一つには槌も一つあれば十分で、槌だけ余分にあってもしようがないし、鋭きが鈍きに叩かれるのもかなわないという解釈もできる。(と、書いてきてパンフレットを再び読んでみると鑿ではなく錐(きり)であった。思い込みのために読み間違いをしてしまったらしい)

思いがけない収穫は、「漢委(倭ではない)奴国王」という例の有名な金印(「きんじるし」と読まないでほしい)は福岡市博物館にありますよ、という地元では常識になっていることを教わったことである。

金印は重さが108グラム、キャラメル程の大きさで、蛇をデザインした小さなつまみが付いている。福岡市博物館はこの小さな金印のためにあるといっても過言ではないが、小さな金印と大きな建築では釣り合いが悪いのではないか。卑弥呼に叱られそうである。東南アジア相手に見栄を張るなと。

金印発見の経緯はビデオで見ることができる。発見場所は福岡市東区志賀(しか)の島、海岸のすぐ側。1784年というから(浅間山大噴火の翌年)天明の大飢饉の頃である。小作人「ひでじ」が用水路を直そうとして掘っていたところ、敷き詰めた小石が出たのでさらに掘り進むと大きな石のフタがあったとな。翌日二人掛かりでこじ開けたところ例の金印が出てきたという訳だが、幸運にも古代史に詳しい人によって「お宝」だとわかり、無知な侍によって刀の鍔(つば)に加工されるのを免れた。多少の褒美と引き替えに黒田藩のものとなり、現在では国宝である。

使い方は紙に朱肉で捺印するのではなく、封泥といって書類を納めた箱にひもを掛け、結び目に粘土を置いて印を押し、開封されていないことを証明するというものである。

余談になるが、黒田節の「呑み取りの槍」が飾ってあるが、歌を知らない外国のお客さんには理解不可能であろう。余談のついでにもうひとつ。農業関係では「抱えもったて鋤」が展示されているが、丸子町石井の松山記念館にも改良前の鋤として展示してある。朝鮮渡来の鋤で、農業技術史としては重要なものらしい。

僕は古代史には全く疎く、邪馬台国にも全く関心を持っていなかったが金印を見てから興味が湧いてきたので太宰府天満宮の近くの九州歴史資料館に行ってみた。

受付の人に「九州の専門家は邪馬台国が九州にあったと考えているのでしょうか?」と挑発的な質問をすると、「課長、課長!」と上司を呼び、呼ばれて出てきた課長は「決定的な証拠はまだ出ていません。あの金印には『委の奴の国王』と彫ってあるでしょう。『倭(委)の国王』が出てきたわけではない」という。

邪馬台国九州説が展開されると思いきや「長野からおいでですか。案外邪馬台国は信州にあったかも知れませんよ」とからかわれる始末であった。

追記:太宰府天満宮参拝には梅ガ枝餅と生姜入りの甘酒がつきものだが、西鉄太宰府駅から天満宮に向かってすぐ右手にある「松屋」は店の裏手に苔庭があるのでそこで焼きたてを味わうのは悪くないし、梅ガ枝餅と甘酒のセットメニューについている小粒の梅干しはさすがに美味しい。

ところで松屋の先祖は幕府に追われながら西郷隆盛のもとに向かう月照上人をかくまったというがその頃にも梅ガ枝餅があったのだろうか?

                                               おしまい

    海外出張(裏)報告 フランクフルト編                      00.6.3 島田賢治

10年ぶりの海外出張でフランクフルトに行った。目的はACHEMA(化学関係の装置・機器の見本市で出展企業3,500社、入場者は22万人)の調査である。5月下旬という良い季節の訪問であり、夏時間のせいもあって夜9時頃まで明い。展示会場の内側だけでなく外側も調査したので報告したい。

5月21日(日曜日)

パリ・ドゴール空港まで隣り合わせだった3人組はアフリカ各国の日本大使館の建築、設備、電気の検査を行う出張だという。そのひとりが大酒飲みで、スチュワーデスが「ワインは赤か白か?」と聞いているのに「両方!」と答える。僕も「同じように」と言ったが、スチュワーデスにとって大酒飲みは厄介なのでちょっと視線がきつかった。彼は食事の後も飲み続けていたが(赤でも白でも良いらしい)、酒禁止の回教の国に向かうので飲み溜めする心算(つもり)らしい。小腹の減った人が食べるためにカップヌードルとおにぎりがギャーレイ(台所)にあったが、タダだと腹が減っていなくても食べるやつが多い。

パリ・ドゴール空港でフランクフルト行きに乗り継ぐ。フランクフルトまでは1時間20分だから羽田−広島くらいの距離か。それほど高度を上げないので地上の風景がよく見えるが、一面の緑が牧場か麦畑なのか区別できなかった。

フランクフルト空港には予定通り到着し、タクシー(クリーム色のベンツ)でホテルに向かう。雨が降っていて少し暗かったが、タクシーはどんどん飛ばす。「この道路はアウトバーンか?」と聞いてみたがそうではないという。

投宿するコンチネンタルホテルはフランクフルト中央駅の向かいにあった。部屋の説明をすると、二重窓の中に遮光用のシャッター(ブラインドではない)が付いている。ハンドルを回すと細長い板が下りてくる仕掛けで、はじめは板と板の間に隙間があって少し光が入るが、連結鎖がゆるむまで下げると密着して真っ暗になる。実に良くできているので感心し、何度も上下させてみた。またハンドルが磁石によって定位置に納まり、ブラブラしないようになっているのも好ましい。ベランダに出るドアも普通に開閉するだけでなく、ドアの枠が手前にチルト(上部が20cmくらい開く)するので雨の吹き込み対策と通風を両立させている。ただしカーテンの趣味は悪く、ドンヨリとしたものであった。続いて水洗便所を観察すると、レバーを押している間だけ流れる方式であった(水タンクのフタをとって確認した)。フタには「水は貴重品」と標語があった。さらにブラシも置いてあるが、「客に便所掃除させるのか!」。 

マイン川をはさんだ都市であるが(正式な都市名はマイン河畔のフランクフルト)原水が悪く、飲める水を作るにはコストがかかるのであろう。ちなみに水道水は不味くはなかった。

ちょっと中央駅(原語を直訳すると主要な駅)でに行ってみたが人も少なく、寂しい感じである。ホテルに戻り、構内でもらったポケット版時刻表を眺める。日本の時刻表には途中の駅の通過時刻が出ているが、この時刻表は飛行機のやつと同じで目的地と出発/到着時刻だけで、本数も少ない。ドイツの中長距離鉄道はアウトバーンに完敗である。細かい話だが、ドイツ国鉄のロゴ「DB」はDeutsche Bahnの頭文字だと思っていたが、時刻表にはDie Bahnとあった(「Die」は英語の「The」に相当する)。

駅構内の大きな時計は秒針が59秒から0秒に進む前に一時停止して分針を1目盛り進め、秒針が再び動き始めるという面白い動きをするので分針が必ず目盛り線上にあってとても読みやすい。「DB」というロゴが入っている腕時計は同じように動くものだと思っていたが、構内売店で売っている土産用の腕時計は秒針が止まったりしない。

ホテルの部屋は小寒かったが暖房は止まっていた。少しくらいは我慢しろということらしい。

5月22日(月曜日)  

ホテルの朝食はバイキング形式で宿泊料に含まれている。簡単に説明すると、パンはドイツ風の固くて丸いやつとクロワッサンや甘いチョコレート入りのパンおよび朝食用(?)のビスケットで、バターロールやスライスしたパンはない(ドイツのパンは固いので歯に不安を持っている人は治療してからドイツ旅行に出発すべきであろう)。さらに杏、イチゴなど各種ジャム(ゆるく、こぼしやすいので衣服を汚す危険性が高い)、蜂蜜、柔らかなチョコレート、バターやローカロリーのマーガリンなどパンに塗るもの色々。ミルクと一緒に食すシリアルも色々。

タンパク源としてはチーズ、ハム、寄せハムの薄切り各種、20cm程の長いウィンナーソーセージ、固ゆで卵、クリームチーズ、ヨーグルト各種。

野菜はズッキーニの輪切りと小粒トマトの4つ割りだけでドレッシングも見あたらない。果物は小粒の青リンゴ、オレンジ、西洋ナシなど。飲み物類としてはトマト、リンゴ(澄明タイプ)、オレンジのジュースとミルクなど。ミルクにちょっとコクが足りないのはコーヒー用にクリーム分を遠心分離した残りのためか? 茶はB級のコーヒー、紅茶、ハーブ茶各種。ありそうで無いものは茹でたジャガイモとフランクフルトソーセージ。

同じ内容を4回繰り返すので変化を持たせるように食べるのが旅慣れた人間の知恵というものである(食べる順番を変えると良い)。

フランクフルトは17世紀から見本市が開かれていたという商業と金融の都市である。見本市会場(MESSE)は、中央駅から歩いて10分程の便利な場所にあるが、会場内を歩く距離が長い。東京の晴海見本市会場などは地下鉄駅からの距離が遠く、会場が狭い。晴海の化学プラントショーが寂れるわけである。

ACHEMA(現地ではアシェマと発音)は朝9時開場である。全てのスタンド(小間)を片っ端から見て回った。目的は技術的な方向性を知ることと独創的な製品を見ることで自分の発想力に活を入れることであって他社の技術を盗むことではない。

各スタンドには産業スパイを排除しつつ、新規ユーザー獲得を狙う猛禽類のような営業マンがいて、関心を示したお客に素早く襲いかかるのだ。まずは人種を見分けてドイツ語か英語で話しかけてくる。日本企業の営業マンの積極性はやや低い。説明員は高い人ならば2m以上もあり、相当に威圧感がある。しかし「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と気合いを入れて、頼りない英語で質問をするのだ。

以前このACHEMAに来た先輩の話では、「カタログ プリーズ」と言いつつ名刺を差し出してカタログを集めてきたそうだが、実際には名刺を見て怪しいと「後で詳しい条件を連絡すれば見積もる」とか言ってカタログすら渡さない。欧米の企業では一般的なカタログでも競合企業に渡すことを禁じている場合があるようだ。

会場内は撮影厳禁である。首からカメラを下げているのはアジア系(当然日本人を含む)の一部に見られるだけである。日本国内の展示会でも禁止であるが撮っている姿を見かける。

ヨーロッパでは独創的であることを尊ぶので他社そっくりの機械はないと思っていたが、そうでもないことが発見であった。同じ用途の場合同じデザインにたどり着いてしまうのもやむを得ないことであり、飛行機で言えばヨーロッパのエアバスA320とアメリカのボーイング767は外観がそっくりである。

しかしその先が問題で、ヨーロッパでは設計技術者が企業間を渡り歩くことがあるので、彼にすればコピーではなく、いずれも自分の作品である。したがって企業も堂々と展示する。「確かにそっくりですよ。同じ設計者の手によるものですから当然ですな」と(確認はしていない)。

逆に終身雇用制の国で、そっくりの機械を見たらコピー(設計または意匠の盗用)をした可能性が高く、これは残念ながら想像ではない。

初日は全体の60%程回ったところで時間切れ(夕方4時)となった。会場のなかを歩き回った距離は15km程になるであろう。小雨の中を濡れながら歩いて駅まで戻り、構内のピザハットでビールと分厚いピザ(イタリア風のクリスピーなピザはなかった)で夕食とし、ホテルに帰り、7時頃に寝た(日本時間では深夜2時)。

5月24日(火曜日) 

今日は7号館から10号館を見るのでSバーン(近郊電車)で行く。切符の買う時は行く先の表を見て、番号を入力すると金額が表示されるのでお金を入れるとキップと釣り銭が出る。(「MESSE」はあまりにも近く、駅名が出ていないのでフランクフルト市内という表示を押す) ホーム出入り口に改札がないので無賃乗車は可能であるが、車内に罰金は1,000DM(日本円で5万円)という警告がある。しかし市内では車内改札もないのでキップを買う人は殆どいない(?) 買った時から1時間過ぎていれば不正乗車になってしまうので注意。

本業のろ過システムの展示は10号館であった。雰囲気を察するのか、(流石に猛禽類である)最初に名刺を求められることが多い。そして名刺を出した途端に緊張感が走る。(名刺の和文の面を表にして出すと良い)

遠心分離機はろ過機と相互に補完する関係なのでこちらも気が楽である。WS社には日本人スタッフのNさんがいた。Nさんにとっても日本語での商談なので少し息抜きになったかも知れない。WS社のスタンドにはビールサーバーがあったので2杯ご馳走になった。ドイツのビールはもともと旨いが、タダだとさらに旨い。

飛行船で有名なツェッペリン社は穀物などを貯蔵し、払い出す垂直タンクを作っている。ここでは巨大な砂時計に水平回転軸と丸ハンドルを取り付けたもので粒体の流れを説明していた。操縦していた(?)のはパイロットの制服が良く似合うドイツ美人で声も美しかった。簡単な質問に答えて抽選に当たれば飛行船に乗れるのだとか。あせって間違ったが、彼女が直してくれた。

飛行機といえばハインケル社が遠心分離機と脱水機を合体させた機械を展示していた。たしかジェット機を世界ではじめて飛ばした会社である。

次の展示会までの3年間は記憶にとどめておいてもらいたいということで奇抜な展示が多く、撒き餌も多い。社名入りのボールペン、ヨーヨー、テニスボール、キャンディ類などは理解できるが、粘着テープに社名入りのリボンが付いたものを通りかかった入場者の背広にくっつけてしまうところもある。気づいて振り返ると美人がニッコリするので肩につけたまま歩いていたが、そのうち取れてしまい、なんという会社か覚えていない。

昼飯は焼いたフランクフルトソーセージを挟んだ丸いパンを食べた。両側に突き出しているソーセージをつまみにビールを飲んでから本体のパンを食べるのが当地の作法らしい。ビールを注文するときデポジット込みで払い、グラスを返却すると1DMのデポジットが返ってくるからテラス席にグラスを置きっぱなしで帰る客はいない。屋台だとビールと合わせて6DM(300円)であった。

午後■時頃には調査が完了したのでホテルに戻って、カタログが入った重いアタッシュケースを下ろし、市内に出かけた。

まず、マイン河(ライン河の支流)の調査(?)のために船にのる。100分コースが13DMで案外安い。ハシケの往来が多く、各所に砂を陸揚げする設備があった。日本では砂は豊富であるが、ヨーロッパの内陸ではどこから持ってくるのだろう。コンクリートも安くなさそうである。新緑の川岸から柳の綿毛(柳絮)が舞い飛んでくるなか、デッキでビールを飲んだ。

次にザクセンハウゼンで名物のリンゴ酒である。リンゴ酒は何と言うのかとメニューを見ていたら「BEER or APPLEWINE?」と聞いてきた。5リットルほどの大きな壷がシーソーのような台座に載せてあり、沈殿物を巻き込まないように注意深く傾けてグラスに注いでくれた。ビールの半額で2.6DM、130円。素人が作った密造酒程度の味だが店の外の木陰のテラス席では地元の人たちが飲んでいたから慣れれば旨いのかも知れないし、ただ単に安いから飲んでいるのかも知れない。

スーパーマーケットで土産用にクッキーを10箱ほど買ったが合計1,200円ほどでこれも安いと感じた。野菜類はしおれていないが種類は少ない。ピーマンだけはしおれて商品価値が下がりやすいのか、ポリ袋入りであった。

興味深かったのは子供(小学生の男子)を叱るというか殴りつける母親であった。最初は悪戯していたのを叱りつけ(頬をひっぱたく)次にいつまでもメソメソしているという理由(?)で再び棒で殴った。買い物客はレジの手前で品物をベルトコンベア上に広げて、次の人との仕切りにプラスチックの三角棒を置くのだが、この棒で胸のあたりを殴ったのである。この光景からドイツ人の躾は厳しいと身震いしたが、子供を自動車内に寝かしつけて、ママがパチンコに熱中する国もある。

ドイツ人は買い物袋をもって来るのでレジ袋は使わないという話を信じる人が増えている。しかしこの街ではレジ袋(紙袋ではない)を使っているし、街中にゴミを集める大きな箱が置いてあり、中を覗くとポリ袋に詰めたゴミが投げ込んである。ゴミ問題に対して先進的な取り組みをしているのはバイエルン州(ミュンヘン)だけかも知れない。

一方、この街にはオペル社の工場があって自動車産業も重要であるが、路面電車でわざと自動車を走りにくくさせているようでもある。道路の両側は縦列駐車で埋まっているので自転車は歩道を走っているが、ヨーロッパでは珍しい光景かも知れない。

夕方7時頃ホテルに戻る。少し寝てから食事に行こうと思ったが、目が覚めたのは朝だった。

5月24日(水曜日) 

満員の路面電車からMESSE前で下り、正門から入場する。Sバーンと同じようにキップを買って乗ることになっているはずだが、車掌もいないし不正乗車の罰金は60DMなのでキップを買う人はいない。(僕は馬鹿正直に買ってしまってから後悔した)

3日目ともなると要領がよくなり、名門クルップ社の宣伝が入ったシャトルバスで奥の10号館に移動する。前日までの調査でポイントを絞ってあるので、今日は重要なスタンドを再確認するだけである。

奇抜な構造の脱水機を展示していたイタリアの営業は小柄なおばちゃんで、彼女が話す英語は特に分かりにくく、「あなたの国はレオナルドダビンチですね」と天才の名前を挙げて適当に煙に巻き、その場を逃げた。たとえ英語のリスニングが得意な人でも奇抜な構造を理解するのは大変であろう。イタリア人には天才レオナルドの血が流れていて、大胆・奇抜な設計は得意とするところである。

海外のメーカーの製品を見るだけでなく、会場で日本商社員やメーカーと会うことも重要である。ここに来ている面々には自分たちの製品をアピールしておきたいし、海外ではつい口が軽くなるので情報入手する上で都合が良い(自分には戒めなければならない)。

午後■時頃には調査が完了したので第2会場(?)の調査に出かけることにした。最初に理髪店を探す。わざわざ髪を伸ばしたままドイツに来ていた。昨日もザクセンハウセンで青と赤の床屋のマークを探したが、何とホテルの隣が床屋であった。先客がいなかったので早速椅子に座る。「短くするのか、少しだけ切るのか」と聞いてきた。最初に「JUST TRIMING」と言っているのに。そして髪の分け方は右か左かというツムジを見れば分かりそうなことでも確認するのはドイツ的なしつこさなのか、髪がクシャクシャであったためか? シャンプーありの、ひげ剃りなしで40DM(チップを含んで2,000円)であるから安い。なお赤青の床屋マークは20年程前にやめたそうである。

ホテルで聞いたところカイザー通りは全部ショッピングに適しているという。カイザー通りの駅に近い地域は品揃えの良い(?)ポルノショップが多いが、これを含めてショッピングに適していると推奨したのか?昨夜、紳士向け有料放送(20DM、ボケはなくツッコミ(?)ばっかり)を試しに見たがドイツ人は助平である。

奥に進むにつれて(ポルノショップの奥ではなく、ハウプトバッフェという中心街に近づいたという意味)高級店が多くなり、「三越」でヘンケルの折りたたみ小形ナイフを買った。小さなハサミと爪研ぎヤスリが付いているので娘達の土産に丁度良いと思った。なおナイフは小形のものほど役に立つ。三越できくと付加価値税(VAT)は16%だそうである。近いうちに日本もこうなるのかと思ったが、5%の日本よりドイツの方が物価は安いと感じた。

マークスアンドスペンサーでネクタイを買った。フランスなどでは客が商品をベタベタ触るのを嫌ってショーケースに入れてさらに鍵をかけてあったりするが、このデパートでは商品を大量に陳列してあり客は触って品質を確認していた。

買い物をした後で店内の一角でビールを飲んでいると向こう側のIMAXという原宿のラフォーレ(行ったことはないが娘達がよく話題にするので知っている)のようなビルの最上階に展望台があったので行ってみた。展望台から超高層ビル群と尖塔を持つ古い教会が見えた。ここは世界の金融から政治まで牛耳るユダヤ系財閥ロスチャイルド家の発祥の地である。

ゲーテはフランクフルト出身らしい。ゲーテハウスという記念館があるので一応行っておこうと7DMの入場料を払う。どういう訳か美術館のように油絵がたくさんあるが直筆原稿は見あたらなかった。さてゲーテは絵描きだったか?

夕飯はトルコ料理。ナスと羊肉とトマトなどが入っている煮込みをかけて食うご飯は旨かった。なおドイツの料理は不味いという評判であるが、試すチャンスはなかった。またセブンイレブンのようなコンビニは全く見かけなかったし、パリのようにタバッキ(キヨスクみたいな店)があるといわけでもない。

5月25,26日(木、金曜日) 

例によって朝食をしっかり食べた後、Sバーン(近郊電車)で空港に向かう。電車から見ると道路はひどい混雑で、空港へは電車が安心かも知れない。

待合室に日本人が多いと思ったら、同時期にデュッセルドルフで印刷機器展があり、フランクフルト経由で帰るところだという。隣席でドイツ語の新聞を読んでいた商社マンは、「19人案内して行ったので大変でした」と小さな声で言っていた。やはりレストランが難しいらしい。安いところは指させば通じるが、高級店ではそうも行かぬ。                         おしまい

サイクリング報告 乗鞍から「田毎の月」まで                         ’99.9.27

島田賢治  

毎年8月最後の週末に北アルプス乗鞍岳で自転車レースが開催される。このレースは乗鞍岳の長野県側の県道を封鎖(レース専用)して、距離22km標高差1320mをひたすら登る国内最大の山岳レースで、今年は全国から3600名の選手が参加し、殆どの選手が完走した。ゴールの標高が2770mもあるので高山病にかかる選手もいるらしい。

僕たちは(山岳会と会社の混成チーム)数年前から3、4名で参加していたが、今回は女子選手1名を加えて総勢8名であった。山屋がホテルや民宿に泊まるはずがなく、いつものように駐車場の片隅にテントを張って(禁止されている)泊まった。お隣りは60歳位の夫婦が同じようにキャンプしていたが、ご亭主がレースに出るという。焼き肉とビールで盛り上がっているところに長野放送が来て取材を受けたが、駐車場内の焼き肉パーティはレース主催者の実行部隊である民宿組合からクレームがついて(?)放送されなかった。

今回のレース結果は2時間32分、順位は2754位であった。僕のベストは1時間58分で、毎年きっかり10分ずつタイムが落ちてゆく。体力はそれほど落ちていないと信じている。むしろ問題点は気力で、レース翌日に筋肉痛がなかったのは有酸素運動レベルでタラタラ走って、死力(!)を尽くしていない証拠である。来年は長期低落傾向に歯止めをかけなけれならない。ともかくも今年は天候に恵まれて槍・穂高が良く見え、特に楽しめるレースであった。

閑話休題。サイクリングには全く関係ないが、原生里芋自生地を見てきたので紹介しよう。場所は青木村の沓掛温泉の手前であるが、案内看板が旅館側に向いているので分かりにくい。その里芋は何と縄文時代に熱帯アジアから日本に伝わってきたものだという。葉と葉柄は普通の里芋と同じだが、根の形が少し違う。(別に掘り起こして観察した訳ではない。半分ほど地上に露出しているのだ) そして秋なのに子芋が小さく、親芋は固くてまずそうである。

地元では「石芋」、「弘法芋」と呼んでいる。例によって広辞苑で石芋を調べてみると「昔、行脚僧が芋を洗う老婆に芋を求めたとき、惜しんで「固くて食えぬ」と断ったため、後その土地の芋は石のように固くなったという伝説。諸地方に伝わり、僧を弘法大師にあてるところが多い」とある。

自生地の土壌は半日陰の西向きの斜面で湧き水が流れており砂礫であった。新婚旅行で訪れたマレーシアのペナン島で水路の縁に自生している里芋(?)を見たことを思い出す。あのときも畑ではなく水路に自生していることに少し驚いたが、山葵(ワサビ)田のような条件を案外好むらしい。なお自生地の面積は50m程で、株数は50株程であろうか。取って食う不埒なヤツはいないようである。(青木村天然記念物に指定されている)

食べ方としてはドングリやトチの実の粉で作る縄文クッキーのつなぎとして使ったらしい。以前は日本各地に残っていたが、現在では唯一の自生地になっており、考古学、植物学上重要である。地元の保護活動によって熱帯原産の里芋が寒い信州で生き残っていることは感慨深い。道路から下りて行く小径も雑草が刈ってあり、蛇の心配をしないですんだ。

沓掛温泉の話題のついでにさらに脱線する。沓掛温泉の近くの竹細工(竹ひごで編んだ蝉)を作って売っている小さな店(竹芸という看板あり)が閉まっており、隣の自宅もカーテンが閉まっていた。近所で聞いてみると爺さんの体調がやはり悪いらしい。数年前は「まけろ、という客には売らない」と意気軒昂であったが、あのとき小さい蝉がついている花篭でも買っておけば良かったかも知れないが、その分野では有名な作者らしく、ザルでも買うような値段ではなかった。

里芋の話の続きであるが、出張の帰りに立ち寄った大分のスーパーでは里芋の葉柄を売っていた。その時はちょっと不思議に思っただけで見過ごしてしまったが、後で調べてみるとハスイモ、蓮芋(?)だったかも知れない。芋は固くて食用にならないが、えぐ味がないので葉柄の皮を剥いて生食する里芋の一種で四国や九州で栽培されており、乾燥野菜としても利用すると「週刊朝日世界の植物」にある。信州は寒いせいか地元で取れる里芋はあまり上等ではないし、ヤツガシラは出回らない。茨城ではヤツガシラの葉茎の皮を剥いてから干したものを「いもがら」とよんで、けんちん汁や豚汁の具にして食べているが信州では見かけない。(最近カミさんが近所のスーパーで見かけたようだが)

本題のサイクリングの話に戻ることにする。

乗鞍のレースが終われば夏も終わる。良く晴れた日に稲刈りの様子を眺めながら気ままにサイクリングするのは気持ちが良いものだ。特に山あいの田圃とか山麓に広がる田圃は郷愁を誘う。

(カミさんに送ってもらい)いつものように青木村の体育館の前で車のルーフキャリアからMTBを下ろし、ここからペダルを踏み始める。無数の石仏で有名な修那羅峠まで37分かかった。前回より少し悪いタイムだが、ここから長い下り坂で冷えるので汗をかかないように配慮して走ったのである。

下って行くと家族総出の稲刈りをやっていたり、畦で一服していた。稲刈りの独特な匂い(稲藁と泥の匂いが混ざった)も漂ってくる。家にいた頃はずいぶん手伝わされたが、僕はこの風景が好きだ。

坂北村の楡窪の交差点を右折するのが予定のコースであるが、天気も良いのでここを直進し聖湖(ひじりこ)を越えて行く大回りのコースに変更した(このコースは初めて)。

麻績(おみ)からの登りは南斜面なので夏場だと背中からジリジリと炙られることになるが、涼しい風も吹いていて気分良く聖湖まで登ることができた。聖湖は釣り人がいるだけで静かであった。(釣り人は無口なので大勢いても静かだ) 

姨捨山を右に見ながら下る。観月の名所(田毎(ごと)の月)で有名な棚田でも稲刈りをしているはずだと思い、地元の人に道をきくとすぐ近くだった。狭くて農業機械が入らない田圃は耕作されずに放置されてしまうことが多くなったが、平成7年度から棚田オーナー制度のモデル事業地として3ha230枚の田圃でアマチュア農民が米を作っている。一人分の田圃が狭いので僕が通りかかった昼過ぎには稲刈りがほとんど終っていたが、みんなの表情から収穫の喜びが伝わってきた。

                         18回目の結婚記念日に(実はすっかり忘れていたが)

追記1:インターネットで 「田毎(ごと)の月」を検索すると、複数の田に同時に月が映る理由を説明してあった。くっきりと丸い月が映るわけではないが実際にあるという。ちなみにその棚田あたりは、鉄道の車窓風景でも指折りのところなので鉄道ファンにたずねても場所を教えてもらえるだろう。

追記2:前回の金印の話で「漢奴国王」は正しくはでした。訂正してお詫びします。

   薩摩半島小さな旅                                98.6.5(rev99.3.15 島田賢治

熊本出張があり、偶然にも(?)翌日から週末なので知覧町の特攻平和会館を訪れ、開聞岳(薩摩富士)にも登ってきた。誤解のないようにお断りしておくが山に登るために出張の日程を調整したわけではない。

5月29日

仕事を終わらせて八代(やつしろ)駅に戻ってみると、鹿児島行きの特急には少し待ち時間があった。それならば球磨川をじっくり見てやろうと思い、行ってみることにする。橋を渡りながら水面を見ると千曲川よりも透明度が高く鯉(?)が泳いでいるのが見えた。河口近くでこれ程の水質ならば良い方だと思うし割合にゴミも少ない。行く先々で川を注意して見るが、河原のゴミがビックリするほど多かったり、必要以上(?)に護岸のある川など住民の教養と行政のレベルが透けて見える。

この町(八代市)には大きなパルプ工場があるが臭いは殆どない。熊本県は「水俣」から学んだのか公害に対する姿勢が厳しいようだ。僕の生まれた高萩にもパルプ工場があるが、その近所では臭いのが当たり前になっていて対照的である。

30分程で駅に戻る。海がよく見えるように右側の席に座り、ビュッフェで買い求めた芋焼酎(香りが素晴らしかった)をやりながら特急「つばめ」で西鹿児島駅へ。あいにくの曇り空ではあったが海岸線や植物の様子が南国らしくなり、結構楽しめる。

鹿児島本線を走る、特急「つばめ」は昆虫をイメージさせるやや角張った面構えである。車内の設備も変わっていて例えば荷物棚は飛行機と同じ設計で、フタを閉じると中味が外から見えなくなるので置き忘れをしそう。西鹿児島駅からは路面電車で宿へ向かう。(路面電車があれば必ず乗ることにしている)

夜は近くの居酒屋で泡盛焼酎をちょっと飲みラーメンを食べる。店のお兄ちゃんに聞くと鹿児島の経済は沈滞しており、元気なのは沖縄だと言っていた。「奴らは福建省辺りの連中と組んで…」というのは密貿易(?)のことかも知れない。

5月30日

知覧町は太平洋戦争末期の沖縄戦に特攻隊が出撃した陸軍航空隊の町である。(海軍は錦江湾を挟んだ鹿屋基地から特攻出撃していた)「特攻平和会館」に入ると正面に3式戦闘機「飛燕(ひえん)」があり、側にそのエンジン「ハ40」倒立V型12気筒を卸して展示してある。これは戦争直前にダイムラーベンツ社から技術導入した日本版のDB601Aであるが生産技術が追いつかず、前線でも故障が続出したらしい。また陸海軍のライバル意識から陸軍(川崎航空機)と海軍(愛知時計電機)が別々に高価なライセンス料を払った(2倍払った)ので「日本の陸軍と海軍は仇か?」とヒットラー総統が笑ったという。

館長さんの説明を聞きながら(立入禁止の柵の中に入って)「ハ40」を詳しく観察した。外観から見るかぎり工作レベルが高そうであり、それ程けなすこともないのではないかと思ったが、クランク軸から直角に過給機用の出力を取り出す場所に「吸気口」という間違った説明書きがあるのと技術的に重要な過給機が取り外されているのが残念であった。

奥の間には「疾風(はやて)」が展示されている。中島飛行機が3,000機以上造った名戦闘機で、確か京都の嵐山美術館にあったはずだがと思って聞いてみると1億円で買い付けてきたという。(第二次世界大戦機は飛行可能であれば3億円が相場だそうだ)

エンジンは「誉」複列星形18気筒1850馬力であるが、空冷星形エンジンの飛行機の場合はエンジンを取り外して展示すると格好がつかないので、当然ながらエンジンを詳しく見ることはできなかった。(ロンドンの科学博物館に日本製の航空エンジンとしては唯一展示されている)

「特攻」は国家によって自殺させられたとも言えるわけで、まさに死を目前にした遺書(辞世の句など)が大量に展示されている。本心か虚勢か、死ぬのが怖いという感情を吐露したものはない。殆どが父母への感謝の文面で弟たちに宛てたものは父母を頼むと書かれている。

読んでいるうちに涙が出そうになった。平和を訴えているのは広島だけでない。修学旅行などで若い人たちにもっと見てもらいたい場所である。

「特攻平和会館」で2時間ほど過ごしてから学校帰りの高校生に交じって茶畑の中を枕崎駅までバスで行く。遠洋漁業の町、枕崎は思っていたより大きな町であったが駅は無人で寂れていた。JRの線路はここで果てて草に埋もれている。しばらく待つとワンマンカーが来て、運転手兼車掌に聞くと山川に行かないと宿はないという。(山川港は鰹の水揚げ日本一で有名)

山川駅前の「日本一安い温泉旅館」の朝食付き2,600円に泊まることにした。(旧館はさらに安く、1,800円で泊まれる。時々スポーツ新聞で紹介されるらしく切り抜きが貼ってある)

夕飯にはまだ早いので、近くを散策していると岸壁で釣りをする老人がいた。プラスチック製の蟹に引っかけ針を組み合わせたもので蛸を釣るという。その蟹は毒々しい赤色であったが、蛸は区別できるのだろうか、それとも釣り人に見やすくするためか? 

夕飯は元祖「鰹のタタキ」を注文した。表面を軽く焼いた鰹の厚切りに薄切りの玉葱をたくさんのせて甘酢をかけてあるが、あまり美味しくなかった。ちなみに我が家では焼津出身の先生から教わったやりかたで食べるがその方が良いとおもう。(鰹は焼かずに薄目に切り、ニンニクを挟んでネギと生姜ををまぶし、酢と醤油をかけて冷蔵庫に入れておく)温泉は食塩泉。部屋はオーシャンビューだから港の様子がよく見えた。

5月31日

「朝食は7時より」というのを6時35分の電車に乗りたいからとせかして朝食を済ませて出発。6時54分開聞駅着。電車から下りた登山客は僕と50歳位のご婦人だけであった。コンビニで食料を調達。(7時半開店というのをドアをたたいて店を開けてもらった)

背広の上着はアタッシュケースに押し込み、ショルダーベルトをタスキに掛け、ズボンの裾を靴下の中に押し込んだ妙な姿で歩き始める。そのご婦人も出張だそうだが、完全な登山装備であった。

登山口通過7時30分。登山コースは山麓から右回りに一周して頂上に達するかたちでジグザグはない。亜熱帯性の樹林が深いため5合目まで展望はないが、約半周したところで東シナ海が足下に見えるようになり、気分も最高。彼女は、一昨日は韓国岳(からくに)から高千穂峰の縦走をしてきたとかで、とにかくパワフル。競争で一気に登り、頂上着8時45分。

梅雨直前の靄(もや)で宮之浦岳や桜島は見えなかったが、足下に池田湖が見えた。群馬や栃木からの百名山踏破グループ、愛知からオートバイで来た女性、地元の人、昨夜同じ宿に泊まっていたご夫婦などで賑わう山頂の開聞(ひらきき)神社の奥社に「景気回復」を祈願して頂上を辞する。

知覧を飛び立った特攻隊が最後に見たのはこの開聞岳であろう。米軍機が待ち構えているので撃墜されることが多く、殆どの隊員は沖縄も見ずに死んだそうだ。

下山して指宿(いぶすき)名物の砂蒸しで山の汗を流し、錦江湾の風に吹かれながらテラスでビールを飲み、ネクタイを締め直して鹿児島空港行きのバスに乗った。                おしまい

  特攻兵器「回天」の基地跡を訪ねて                       '95.7(Rev.99.3.17)    島田賢治

太平洋戦争末期の日本軍は「物量にまさる米英軍」に対して「特攻」という前代未聞の攻撃を行い、恐怖と損害を与えた。いわゆる「神風特別攻撃隊」や人間魚雷「回天」である。

先日、出張の帰りに山口県大津島にある「回天」の記念館を訪れた。JR徳山駅の裏手から定期船(便数が少ない)が出ているのだが、昼飯を食っているうちに出航してしまった。地元の人に聞くと「タクシーで行け」と言う。それは21人乗りの船で、定期船が480円なのに10,000円も取られるのだから特攻隊にでも志願するような気分であった。

記念館(訓練基地跡)のパンフレットには「回天は世界最高の性能を誇った93式酸素魚雷を人間が操縦できるように改装した(直径1m、全長14.5m)もので昭和19年11月8日菊水隊を第一陣として南太平洋各地に出撃、145名が散華した」とあった。ここでいう世界最高の性能とは航続距離と速度のことらしいが、遠距離だと命中しないのは当然で、自動追尾する制御装置がなければ役に立たないし、事実、戦果は少ないようだ。

酸素魚雷とは燃料(石油?)を高圧の酸素で燃焼させたガスに海水を添加して高圧の蒸気を作り、2気筒のピストンを駆動するもので一種の蒸気機関(外燃機関)である。(海中から引き上げた実物が展示されている)

人間魚雷「回天」を潜水艦のデッキに固定したまま敵を探して航海し、敵鑑を発見したら底の特殊なハッチから乗組員が乗り移って切り放す(上部のハッチは主に訓練用)。 簡単な潜望鏡で距離、方位、敵の針度、速度を測定し(舳先の波の様子から速度を推定する程度)、その後潜望鏡を下げて、盲目状態で一気に突っ込むというものであった。操縦者は生還しない。酸素魚雷のエンジンは低速では爆発する危険が高いために、全力で航走せざるを得ず、すると潜望鏡で目標を狙いながら操縦して水面直下を航走した場合は白波で発見されてしまうという矛盾があった。

僕も詳しくは知らないでいたが、飛行機の体当たり攻撃とは全く違うもので内容を聞くと情けない。要するに近距離で潜水艦から魚雷を発射すると音響で察知されて駆逐艦に襲撃されるので、遠くで切り離して「後は頼むぞ」という戦法になったという。

重大な戦局を回天するにはこれしかないという悲壮な発想で作られた秘密兵器ではあったが、戦果は全くなかった。これでは命がけで訓練してきた(訓練中の事故死が多い)甲斐がない。

数学に強く、決断力のある優秀な若者(理数系の出身者が多かったらしい)だけを集めて訓練していたのだと誇らしげに館長が説明するので、計算尺でも持ち込んだのかと質問したら、簡単な図表を見るだけだと言っていた。それにしても頭の良い人間ならばこの矛盾だらけの特攻兵器に幻滅しなかったのだろうか?

記念館でふと思った。狂気のオウム真理教が連日マスコミに取り上げられ、前代未聞だというが50年前の日本は国民全員で似たようなことをしていたのではないかと。

「洗脳」を戦前の軍国教育に、「麻原彰晃」を天皇に、サリンの実行犯を特別攻撃隊員に、修行用の個室を「回天」に、「ショショショショーコー」という例の歌を軍歌に対比させてみると共通点が多い。

「成績優秀」ではあっても信じるべきものと疑うべきものを区別できない人間が集まるとハルゲ丼のいっちょあがり!

                                      終戦50周年にあたって

       遠山郷を訪ねて                                    96.5.8

                                                       島田賢治

長野県南部の大鹿村、上(カミ)村、南信濃村を合わせて遠山郷(トオヤマゴウ:江戸時代の領主の名前に由来)といい、伊那山地(南アルプス前衛峰)と赤石山脈(南アルプス主脈)にはさまれた谷沿いの過疎の村である。無形重要文化財の「大鹿歌舞伎」と「霜月祭り」は、新聞やTVでよく取り上げられるのでご存知の方も多いと思う。

最近気が付いたのだが、上田市大屋から大門峠に向かう県道が国道256号線になったと思っていたら、いつのまにか国道152号線に変更されていた。新しい地図を見ると遙か浜松までつながっているではないか。

4月28日

大門峠を越え、諏訪湖を右に見ながら、杖突(ツエツキ)峠を越えるところまでは快調であったが、峠を少し下ったところで高遠の大渋滞に巻き込まれてしまった。この時期は高遠城址の桜よりも、渋滞のひどさが話題になるという有名な渋滞なので知ってはいたが判断が少し甘かった。土地の人に教わって遠照寺経由コースをたどり高遠をバイパスしたが、遠照寺も牡丹の季節には要注意らしい。

高遠城址公園と同じ小彼岸桜であろうか、桃のように色が濃いので高曇りの空に溶け込まず、鮮やかである。高遠を過ぎると渋滞の心配は無くなるが、国道とは名ばかりで殆ど林道のようである。特に峠付近は狭いので対向車とのすれ違いが難しい。山側は藪でこすりそうだし、谷側は脱輪の危険がある。

分杭(ブングイ)峠を越え、客商売未経験のおばさんたちがやっている、村営の「秋葉路」という店で五平餅とコンニャクの田楽を食べて一休み。この店の五平餅は竹串であった。僕の五平餅のイメ−ジは、木片に草履形の飯をくっつけて、クルミ味噌、ゴマ味噌を塗って炭火であぶったものだったので竹串を意外に思った。ちなみに翌日、大桑村の「道の駅」で食べたのは「竹串」で、続いて木曽の赤沢自然休養林で食べたやつは「木片」だった。木曽と伊那の五平餅の比較研究は今後の課題である。(あとで調べてみると竹串のほうが古いタイプらしい)

大鹿村の中央構造線博物館で地質学のお勉強をする。糸魚川・静岡構造線(フォッサマグナ)と中央構造線が全く別物であることを教えられ、今まで勘違いしていたことに気がついた。中央構造線とは九州の阿蘇から始まって四国(断層の部分が浸食されて吉野川になった)からさらに伸びて紀伊半島を横断し、国道152号線に沿って北上し、最後は群馬県に達する巨大な断層のことであり、その断層の左右では岩石の種類が全く異なっている。断層面が直接観察できるポイントが博物館の手前にあり見てきたが、断層すなわち岩石の滑り面を直接見ることができる場所は数少ないらしい。

ちなみに二つの構造線(断層)の交点が諏訪湖だそうだ。もともとの深さは1000m位あったらしいが現在は周囲の山から流れ込む沈殿物のために浅くなってしまい、水深が5m以下なので、「湖」ではなく「沼」に分類するのが正しいらしい。地蔵峠には高校生くらいの若いサイクリストが3人ほどツーリング仕様のMTBを道端に置き、日陰のアスファルト道路に仰向けになって休んでいた。この道は静岡側から秋葉神社を経て、青崩れ峠を越えて高遠にいたる健脚向きのサイクリングコ−スとして知られている。

しらびそ峠は北アルプスで例えると蝶ケ岳のような展望台である。車で行っておいて文句をいうのもはばかられるが、なんでこんなところに道をつけるのか?

多分道路を造ること自体が目的であろう。北アルプスならば反対運動が轟然とまき上がること必至であるが、こちらはあまり問題にもならず出来上がり、枝道は既に崩壊している。

荒川三山、赤石、聖、上河内、光の展望を楽しんだ後、未舗装の林道を村営「高原ロッジ下栗」に向けて下る。

ロッジは小学校(下栗分校)の跡地にあるので狭いながらも運動場がある。(当たり前だと言わないでほしい)廃校になった後も体育館は取り壊されないで残っており、ピアノが残っていたので娘達に弾かせてみた。「子犬のワルツ」と「エリ−ゼのために」が体育館に響き、校庭に流れた。

校庭の隅に「日本のチロルと命名する」という碑がある。かのウェストンが「日本の山岳にして、真に西欧のアルプスの嶮を偲ばせるのは、赤石嶽なり」と言ったのでそれを都合良く解釈して、アルプスが見えるならばチロルだということにしたらしい。県立歴史館長市川健夫先生の命名。

有名な、というか名物の、急斜面の畑と集落は校庭の縁に立たなければ見えないが、そこから見たとたん高所恐怖症の人は血の気が引くかも知れない。少し散歩でもと思ったが、帰りの登りが心配であまり遠くまで(下まで)行く気にならない。多少でも畑仕事の経験があれば、その斜度が驚異的であることが理解でき、失礼ながら、何故こんなところを耕すのかと不思議に思うだろう。砂礫混じりの「ゼリ畑」は案外、地味が豊かとはいうが耕運機などは転覆するので使えそうもないし、鍬(くわ)も幅の狭い特別な物を使う。農婦が斜面に腰を下ろして横を向き、草取りしていたが、見慣れない姿勢である。(日本の農民は膝をついたり腰を下ろしたりしない) 斜面を切り取ったところに建ててある家の屋根の北側の縁は畑とつながっており、屋根には石がのせてある。

ロッジのマスタ−に聞くと、ここ「下栗の里」では70戸150人が暮らしていて、若い人は林業や土木工事などで働けるが殆どが老夫婦だけなので、野菜などを少し作るだけで年金生活とのことであった。狩猟が盛んであるが、猪、鹿、熊などの捕獲数は税務署がうるさいので秘密にしており、自慢したりしないようである。

さてお待ちかねの夕食は山肉(さんにく)料理であった。猪鍋、鹿の刺し身、岩魚(アマゴかも知れない)、茸、山菜、稗飯(粟、稗、黍入り)。味噌仕立ての猪鍋は特に旨い。鹿の刺し身は癖がなく、結構いける。二度芋という1年に2回収穫できるジャガイモに味噌を付けて食べるのも味がよく、ネギも独特な種類らしい。

4月29日

今日の行程は長いので朝食(普通の朝食で、粟、稗は混ざっていない)を食べてすぐに出発した。

遠山川にそって平岡ダムまで少し下ってから、本流の天竜川に沿って北上し、清内路峠を越える。観光客で賑わう木曽妻籠宿を素通りし、「寝覚めの床」に立ち寄った。特急の窓から見ていつも思うのだが、浮き輪につかまって流れ下れば面白いのではないか。

赤沢自然休養林のトロッコはディーゼルで引くやつであるが、始発駅に蒸気機関車「ボールドウィン」が飾ってあり、この自然休養林の人気のひとつになっているようだ。トロッコから眺める原生林の様子が楽しい。水もきれいで森林浴の効果がありそうである。

ここの売店で五平餅の柄に使う小割にした板を買っていこうと思ったが、売っていなかった。

やはり竹串でなくサワラかヒノキで五平餅を作ってみたいものだ。              おしまい

      MTBと万葉集                                       95.9.13 島田賢治

去年の「上昇気流」にMTBサイクリングお薦めコ- スをいくつも書いておきましたが、その後の活動状況を報告します。

4月2日    

自宅=太郎山裏参道−太郎山神社(往復) 

昨年MTBで太郎山へ登った時、年配の御婦人(!)が僕の自転車を見て「私もMTBで裏参道を下ったことがある」という。若い連中が表参道をMTBで下って来るのを何度か見たことはあったが、その話をカミさんにしたらやって見ようということになった。裏参道は要するに急な林道だから漕いで登れないこともないが、要は体力次第。僕が半分くらいは乗って漕いで登り、カミさんは全部押して登った。残雪があり、下り道はどうするかと思案する。残雪のところはハンドルを取られるので何度も転んでしまったが結構面白かった。カミさんは危ないからといって下りてしまうので自転車はお飾り。

4月8日午前

自宅=真田(萩)−洗馬川林道終点(往復) 

5万図を見て面白そうなので行ってみたがやはり行き止まりで、峠を越えるという満足感がなかった。岩魚釣りの人がたくさんいる。フキノトウを採りながら戻る。

4月8日午後

自宅−田沢−東入−林道分岐(往復) 

午前中のサイクリングが少し物足りなかったので、午後のサイクリングは東部町の上の方へ。ダムの工事現場を通り抜けて林道の分岐点まで行く。左に行けば烏帽子の頂上直下まで行けそうだが、時間切れで今日は偵察のみで帰る。

4月15日

自宅−坂城−和平(峠)−真田−自宅(3時間30分) 

和平には前から登ってみたかった。足がまだできていないために結構辛い登りである。峠付近の畑の中の道がひどい泥道で2インチのタイヤが3インチにふくれてしまった。

4月16日   

自宅=坂城(村上)−室賀峠−室賀温泉−大円寺−自宅 

今日も暇なのでサイクリング。千曲川を挟んで対斜面にいるので昨日の和平の道が良く分かる。室賀温泉はタダなのでお勧め。発泡スチロールで枠を作り、ビニールシートを張った湯船である。

4月22日   

自宅=真田(長)−角間温泉(往復) 

カミさんと温泉に行った。勿論、別々の風呂。

4月30日   

自宅−上山田−城山(往復)(登り10分30秒) 

この坂は県内で一番きついと思う。城山からさらに四十八曲がり峠に行くつもりであったが、ヤメタ。

5月3日    

自宅−菱野温泉−車坂峠−北軽−峰の茶屋−軽井沢−自宅(8時間40分) 

去年も何度かきた車坂峠であるがやはり辛い。北軽では雨に降られたし、道路も渋滞していて走りにくかった。渋滞の原因はツルヤへ焼き肉の材料を買い出しに行くためであることが判明。高度差合計1800m。かなりのハードコース。

5月7日    

自宅=小諸水源地−追分(往復) 

1000m林道は実に快適で、カミさんもここなら何度来ても良いと言う。

5月14日   

自宅−岩清水−赤井−TV中継塔−市民の森−自宅  

スタ-ウォッチングのロケハンに行った。上田の市街地の光が入るので西の空の観察にはあまりよくないと思う。市民の森で飯島君に会う。

5月20日   

自宅=奈良原温泉−地蔵峠(往復)(登り2時間5分)

途中まで車でMTBを上げたのは「山の神」の強い要求によるもの。

5月28日   

自宅=太郎山裏参道−太郎山神社−頂上(登り1時間6分) 

全部漕いで登ることに成功。急坂はサドルを低めにセットして漕ぎだし時の安定がコツ。

7月9日    

自宅=青木村−修那羅峠−林道(1220m峠)−室賀−別所温泉−自宅 

室賀温泉は改修中のため別所の大湯に行った。

7月15日   

自宅=小諸=浅間山荘分岐−車坂峠(往復) 

水源地から漕ぐのが正しいのだが、少しズルをしたのはカミさんの意見を採用したため。

(7月28−30日) 剣岳 水出会長、田口君、青木君と

(8月2−3日) 蝶ケ岳 ファミリーで

8月6日    

自宅=更級小入口−聖湖−冠着山−上山田温泉−自宅 

聖湖までのタイムは1時間2分であった。冠着山の頂上は展望がきき、月見の宴会を開けば最高。ただしトイレはない。

8月26日   

自宅=別所温泉−越戸峠−青木村−沓掛温泉−野倉−別所温泉=自宅 

沓掛温泉の手前に「竹芸〕という小さな店があり、ご老人が仕事をしている。蝉の作品が多い。このコ- スはカミさんも気に入ったらしく紅葉の頃にもう一度来ることにした。

8月27日   

自宅=八千穂村−麦草峠−蓼科別荘地−鈴蘭峠−女神湖−丸子町−自宅(7時間) 

距離、高度差、道路など最高の条件がそろっている。 しかし今日は乗鞍のレ- スがあるためにサイクリストは少なかった。

9月2日    

自宅=鹿教湯温泉−保福寺峠−蝶平林道−武石峠−美鈴湖−四賀村−保福寺峠−鹿教湯温泉=自宅(7時間30分) 

保福寺峠には「信濃路は今の墾道刈株に足踏ましむな沓はけわか夫」の万葉歌碑がある。裏面も見ようと回り込んだときに危うくふん(糞)づけそうになった。今も昔も信濃路は危険が一杯で、足元要注意である。

9月3日    

自宅−市民の森(漆戸の交差点から25分30秒) 

昨日の疲れが残っていてタイムはNG。

9月5日    

会社−湯楽里館(往復で30分) 

昼休みサイクリングでどこまで行けるか試しているが、これが限界であろう。

                                               おしまい

  「阿蘇に少し遊ぶ」の記                                    98.12.20 

                                       島田(記)

鉄道旅行が好きなN君に車窓から見える風景で一番素晴らしいのはどこか?という質問をしたところ「それは阿蘇でしょう」と断定した。因みに僕は信越線で見る妙義山から浅間山あたりが良かったと思う。妙義の険しさと丸みのある浅間山が対照的で、そのふたつの風景がトンネルで仕切られているのも好ましい。しかし碓井峠が廃線になったので年月が経てばこんな話は通じなくなることであろう。

例によって?九州の出張のついでに今度は阿蘇山に行ったのでその報告。

熊本を朝早く発ち、名物のスイッチバックを経てJR「阿蘇」駅にて下車。ここから観光タクシーに乗って(2時間12,000円は高かった)噴煙の上がる中岳、草千里、火山博物館というオーソドックスなコースで回ることにした。山裾は杉林であるが高度が上がると見晴らしが良くなり、カルデラ地形が良く分かるが、要するに盆地である。平らな場所は水田か畑であった。

幸い天気が良く、空気が澄んでいたので雲仙の普賢岳が案外近くに見えたが、阿蘇から見ても分かるほどに山頂の形が変わったという。山に詳しい運転手だったので久重、祖母なども教えてもらったが、特に久重山群は立派な山容であった。

運転手が「先に火口の方を見ましょう」と言う。行ってみて分かったが風の向きによっては火口に全く近寄れないのである。昨年、火山性のガスによる死亡事故があったので、ガス濃度計と風向きで立ち入り範囲を規制している。火口の底には灰色の濁った水が溜まっており、片隅から水蒸気が吹き出しているのが見えたが、浅間山(登山禁止)の火口の方が迫力があるわいと再び比べてしまう。

火口から下山する途中で「狂い咲きのミヤマキリシマが数株ありますよ」いうのでタクシーを停めてもらって見てきた。花数も少なく、もうしおれかけていたが珍しいものを見せてもらった。レンタカーで走り回っていたら見られなかったであろう。ミヤマキリシマは初夏に咲く花だが数年前に全山の株が一斉に咲いたことがあり、特に素晴らしかったという。この話は運転手も後述する馬丁も言っていたくらいだから全ての株に花がつくのは珍しいことらしい。

「草千里」は色々なCMで皆さんも見たことがあると思うが、草原の真ん中に小高い丘があり正面の山は烏帽子岳という。大抵のCMでは右側を使っているので丘が左側に見え、広さは三方が峰(高峯高原)の湿原より少し広い。その丘を周回する乗馬が20分間3000円というので乗ってみた。(手綱を馬丁が引くやつで馬は農耕用の種類らしい)馬も同じ所ばかりじゃつまんないのか頸を下げたまま歩き続けていたが、コース途中の水飲み場ではガブガブと勢い良く水を飲んだ。飲(呑)んでいるときに元気が良いのは馬も人間も共通であった。

夏の草千里は牛馬が放牧されているので糞だらけらしい。清潔さを売り物にするようなCMはどのように撮影したのだろうか。コンピュータで画像処理を行って馬糞を消したのか、馬糞をADに拾わせてから白い衣装の女優を立たせたのか、下らないことを考えつつ馬を下り、向かいの火山博物館に入ったところちょっと信じられない記録映画が上映されていた。

昔は噴火のニュースが流れると観光客がどっと押し寄せ、火口の近くまで寄って見物したり、噴煙をバックに写真を撮ったらしい。あきれながら帰途に就く。

                                                おしまい

ミュンヘン、パリ旅行記                                  ’99.2.27

島田賢治          

  不景気のせいか少し暇になったのでミュンヘンとパリに遊びに行って来ました。例によって科学技術系の博物館をまわる旅行です。初めて行った国なので間違ったことを書いているかも知れません。発見したときはご指摘をお願いします。

1月30日(土曜日)

  AF275便の成田出発が3時間も遅れることがわかったので、チェックインを済ませてから成田空港の外の航空科学館へ行ってみた。羽田空港の滑走路拡張工事で偶然掘り出された「富嶽」のエンジンがあるという新聞記事を思い出したからである。

  「富嶽」は昭和18年頃に中島飛行機(富士重工のルーツ)の社長が自ら発案した巨人機で、日本から太平洋を無着陸横断し、マンハッタンに爆弾を落としてからドイツまで飛んで行くという無茶な計画であった。5,000馬力が必要とされ、4列星形36気筒などを検討していたがついに見通しが得られなかった。展示されていたのは代案として検討された当時最強のエンジン、三菱「ハ50」らしい。(前間孝則著「富嶽」にわずかに紹介されている。空冷星形複列22気筒3,100馬力、試作品レベル) 三菱「ハ50」は地中で腐食してしまい、みすぼらしい状態であった。しかし3,000馬力以上の航空エンジンは世界的にも数えるほどだから貴重なものである。実に残念なことに説明パネルがないので、現物を見たのに「らしい」と書かねばならない。日本の技術史上貴重な素材なのだから適切な説明パネルをつけて展示してほしい。関係者(三菱重工)も掘り出されたときに懐かしんだだけで満足してしまったのだろうか?

  他に見るべきものは無いので早々に空港に戻る。(案外遠いので注意、タクシー2,600円) 3時間遅れでやっと出発。機内は空いており三つの座席を使って横になるが肘掛けが少し邪魔。機内食は不味く、酒も安物しか出さない。ブランケットもJALより薄手で安物だから3枚掛けても寒気がする。

  「着陸態勢に入ったので……」というアナウンスで起こされ、外を見るとパリ郊外の小さな街の明かりが見える。道路が格子ではなく放射状になっていて外国に来たと実感する。「あれがパリの灯か…」と。パリのシャルル・ド・ゴール空港で入国手続きをしてから循環バスに乗ってターミナル1に行き、ミュンヘン行きLHに乗り継ぐ。 ミュンヘン空港に着いたのは夜中の11時で、一歩外に出ると雪がチラチラ降っていた。タクシーはアウトバーンを140km/hで飛ばし、ミュンヘン駅近くのホテル(SOL INN HOTEL)に無事到着。

1月31日(日曜日)

  ミュンヘン駅に行ってみた。ミュンヘン駅は国際特急や長距離列車だけの駅なので混雑していないし、思っていたより狭い。先日大事故を起こした特急列車「ICE:Inter-City Express」はデザインが地味で、雪の中を走るせいかちょっと汚れている。翌日はシュッツッツガルトへ行くつもりだったので駅で小さな時刻表をもらったが、行く気がなくなってしまった。それに車窓が曇り空の雪景色では寒々としていて滅入ってしまいそう。

  駅前からタクシーに乗ると、これがホンダ車にディーゼルなので驚いた。助手席に座り、運転手に「ドイチェムゼウム」と右横から行先を告げる。(ドイツでは客が助手席に乗る)

  ドイツ博物館(科学技術という修飾語がないことに注意)はドナウ河支流のイザール川中州に建つ世界最大の科学技術博物館である。その名前から判断すると「ドイツ=科学技術」というつもりらしい。日本製品ではソニーの放送用カメラとホンダのオートバイが展示中。独創的な製品を造るという企業イメージがドイツでも認められたのか、それとも国内に工場があるかも知れない。

(以下の文章は読みにくければ飛ばして下さい)

@自動車

  ガソリンエンジン付きの自動車はベンツとダイムラーがほぼ同時期(1886年頃というからエッフェル塔より数年前)に作った。当時は全くの他人で知り合いでもなかったらしい。

  ベンツが作った3輪自動車はガラスケース入りで、「ドイツ博物館」という大きな垂れ幕付きで展示されていたので国宝扱いである。自転車のような細い車輪だから軽快に走りそう。初期のガソリンエンジンは、点火装置とキャブレターが技術の核心部だと思うが、点火装置は高圧点火プラグで現在のものと大差ないことに驚く。ただしキャブレターは原始的で調子悪そうであった。当時のガソリンはオクタン価が低いので圧縮比も低い。アクセルペダルの代わりに椅子の左下にツマミがある。ダイムラーが作った4輪自動車(特別製の馬車にエンジンを載せた)の方はレプリカもなく比べることはできなかったが、シュッツッツガルトのダイムラーベンツ博物館に実機があるらしい。

A鉄道

  世界最初の電気機関車(ジーメンス&ハルスケ製、トロッコ程の大きさ)もお宝なので「ドイツ博物館」の垂れ幕がかかっている。直流モータにはブラシと呼ばれる部品が不可欠だが、銅線を20本くらい束ねたもので刷毛(ブラシ)のような形であった。理解を助けるために透明カバーになっている。

電線会社に勤務する僕としては線材も見ておく必要があるが、コイルは銅線の上に綿糸(絹糸?)を巻き、さらに塗料で固めたものであった。(注:後日「金属」という専門誌を読んでいたら、集電は第3軌条方式であるとあった)

  蒸気機関車の展示で珍しいものがあった。4シリンダーの蒸気機関車で、動輪の軸もクランクになっている。このSL(多分バイエルン特急を牽いた)は2段膨張機関で効率を追求したものである。3シリンダー以上にするとメンテナンス性が問題になるが、ボイラーの位置をかなり高くして作業スペースを作っている。なお、ボイラーの真下のシリンダーは高圧用であるから直径とストロークが小さい。日本では「C53」が3シリンダーだったがメンナンスが困難で以後この方式は採用されていない。

  クランク軸の動輪も単独で展示されていて分かりやすい。この点でも梅小路の「C53」とは違う。ドイツ人は複雑なメカニズムを嫌わない(怖れない)。日本人はシンプルな方が良いとかいって避けたがる。 展示されている機械類を見ているとドイツ人は北方系の執拗さがあり、日本人は南方系のあきらめの早さがあるように思われた。

B大陸間弾道ミサイル「V−2」

  史上初の大陸間弾道ミサイル「V―2/報復2号の意」の開発は10年の年月と5,000人以上の技術者を動員したもので、アメリカのマンハッタン計画(原子爆弾)の次に巨大なプロジェクトであった。

  責任者のフォン・ブラウンは、発明者ではなかったが開発マネージャーとして必要な能力(先見性、未知の技術に対する洞察力、金を出させる弁舌、人間的魅力)が優れていたらしい。

  「V―2」は大量生産され、ロンドンに向けて毎日何発も発射された。超音速で飛び込んでくるミサイルは大きな恐怖をロンドン市民に与えたらしい。飛行機から落とされる爆弾とは違って、防空壕に逃げ込む余裕が全く与えられない。

  高さ14m、直径1.6mの実機が螺旋階段の中に置かれていた。この展示方法が良い。まるで「V−2」に合わせて展示室を作ったようだ。外皮の一部をはぎ取ってあるが、機体の2/3は燃料(エチルアルコール)と液体酸素のタンクである。ロケット噴流の向きを変えて姿勢制御を行う黒鉛製の舵がよくわかる。また燃料と液体酸素を高圧で燃焼室に送り込むタービン駆動のポンプやロケットモータ本体のカットモデルも別にある。勿論(!)今日の衛星打ち上げ用ロケットと殆ど同じ構造である。

  なお「V−2」は終戦時にもたくさん残っており、技術史的にも重要なのであちこちの博物館で実機を見ることができる。(日本には展示されていないと思う)

C慣性誘導

  本によっては「V―2」は慣性誘導であった、と書いてある。巧妙な設計で加速度の検出はジャイロで行い、真空管の回路で積分して距離を求めたとある。当時は電波誘導とその妨害技術が盛んに研究されていたので、技術的困難を乗り越えて慣性誘導を完成させたというのである。

  しかし、「V―2」=慣性誘導はどうも釈然としないところで、ドイツ技術の信奉者が書いた文章に僕は疑いを持っている。今日の慣性航法のルーツには当たるにしても、実際にどのようなレベルであったか検証せずに丸写しした本がある。例えばNHK出版の本では「ドップラーレーダー」としてあるが「V−2」にはレーダーはないし、「ドップラー効果を利用して……」としか説明にも書かれていない。

  「V−2」の姿勢制御と航法については今後のテーマとしてもう少し研究したいと思う。さて展示品は30cm角程の小型のジャイロユニットと真空管(GT管)5本とシールドケースに入ったコイル(?)数個を組み合わせた制御装置であった。(2セットを一組にして使ったようである)真空管5本ならば簡単な回路のはずだと想像したが、説明(英文もある)がなかなか理解できなかったのは悲しい。回路図があれば何とか理解できたかも知れない。

  追記:ドルンベルガーの「宇宙空間をめざして−V2号物語」という貴重な本を読む機会があり、疑問が殆ど解消した。姿勢の検出はジャイロで行い、横風などによる予定コースからのズレは錘を使った加速度検出器を使い、速度の測定は地上から電波を飛ばして反射波の周波数がドップラー効果で下がることを利用して測定したとある。

D航空エンジン

  ドイツの「DB601A」とアメリカの「V−1650」のカットモデルを並べて展示している。ドイツはイギリスに負けたのではなくアメリカに負けたのだ、と言いたげであった。「V−1650」エンジンははロールスロイス・マーリンのアメリカ版でP51ムスタングに搭載した。「DB601A」はその後発展して「DB631」まであきれる程の機種が計画あるいは試作されているので、そのうち何機種かがあると思って期待していたがまったく無し。

  「DB605」を2基結合して大出力を狙ったが、排気管の取り回しが悪いために頻繁に火災を起こし、ついに失敗作という烙印を押されたモンスターエンジン「DB610」は倉庫にあるらしい。

Eコンピュータ

  真空管式の計算機が数種類展示されている。回路をユニット化し、素早く差し替えられるようになっているのは信頼性の低さ(故障が多い)の対策らしく、テスターを持っている修理作業中(?)のマネキン人形がある。

  クレイリサーチ社のスーパーコンピュータが展示されているのには驚いた。演算速度と高価格を誇っていたがもう博物館入りである。真上から見るとアルファベットの「C」の形で、内部の配線接続作業は切り欠いてあるところから手を入れて行ったようだ。(青白のツイストペア線が大量に使われていた)

台座はスツールのようになっているのが何のためか? 座ってみたが安っぽい座り心地だった。

F工作機械

  原始的なものから現代まで各種の工作機械が展示されている。興味があったのはハンド電気ドリルで、一体いつ頃からあるのかと思っていたが1895年製のものがあった。ドリルチャック部は現在のものと違っているが、完成度が高いのでもっと前からあったことになる。

G醸造機械

  ミュンヘンはビールの名醸地である。水道水も美味しくて腹をこわさなかった。(パリの水道水は味は悪くないが腹をこわしてしまった)醸造機械のコーナーではビール醸造機械の模型が展示されていて、瓶詰め前のろ過工程に使われる ろ過機(フィルタープレス)もあったが、SHENK社という小さな銘板がついていた。

  機械の話はこれくらいで食事の話に移る。ホテルの朝食は、バイキングスタイルで種類も多かったが、野菜サラダはなかった。冬場の野菜は高価で、肉類は比較的安いらしい。青リンゴも出ていたが小粒でボケていた。一日中この博物館でじっくりと過ごすつもりなので館内のカフェで昼飯にした。数年前に行ったロンドンの科学博物館のカフェでは昼飯がまずくて吐き気をがまんしたことを思い出して注意しながら選ぶ。

  ビール(350円)と野菜サラダ(850円)を食べた。野菜サラダは量が多くチーズがのっていてソースもこってりしていそうなのでサラダだけにしておいた。ズッキーニを初めて食べたが、キュウリのような青臭さがない。  さてミュンヘンと言えばビールであるが、こいつを飲むと疲れが取れて度胸がつくから有り難い飲み物である。昼飯時には毎日欠かさず飲むことにする。栄養もあるし税金がかかっていないのか安い飲み物である。(朝食のバイキングに出ていれば、別料金でもよいから毎朝ビールを飲みたかった)

  博物館を去る前に航空関係の分館があるようですが、と受付係の婦人に尋ねるとオーバーシュロイスハイム駅で下りて15分歩けと教わりパンフレットをもらった。帰りのタクシードライバーは長野オリンピックを見に行ったと。異国での会話というものは最初は簡単だが会話が進んでいくと語学力の不足(欠如)で途切れてしまう。

  風呂に1時間くらい入った後、エールフランスで余分にもらっておいた白ワインを飲んだだけで夕飯を食べに行かずに寝てしまう。日本時間では朝7時頃。

2月1日(月曜日)

  ミュンヘン駅の地下から電車が出ているのだが、料金システムが分かりにくい。日本ならば適当に切符を買っておいて下車駅で精算すれば良いが、ドイツでは乗り降りの改札口がない代わりに乗る前に自分で検札機に通さなければならない。車内検札が頻繁にあり、そのときに検札済みの有効な切符をもっていないと罰金を取られるのでしっかり料金を確かめて買う必要がある。

  駅にはタクシーがなかったので住宅街の中を航空博物館(ドイツ博物館の分館)まで歩いて行ったが、道を間違えて30分もかかってしまった。

(以下の文章は読みにくければ飛ばして下さい)

@BMW803型航空エンジン

  これは液冷星形複列14気筒2基を組み合わせた世界最大級の航空ピストンエンジンである。星形4列28気筒、総排気量85.5リットル、4,000馬力、2950rpm、直接燃料噴射、星形にしては珍しくOHC。航空エンジンは正面面積を小さくしなければならず、大出力エンジンも巨大であってはならない。

  ノッキングを避けるために1気筒の排気量は3リットル程度で、1気筒当たり150馬力程度だからV型12気筒や星形複列18気筒という従来型のエンジン形式では限界があった。V型や水平対向12気筒エンジン2基を組み合わせ、歯車で出力を合流して大出力化を計るのは各国で試されたが、星形エンジンを組み合わせた例は少ない。

  エンジン冷却は液冷(水ではなく高沸点の液体を使うと外気と冷却液の温度差を大きくできるので、ラジエーターを小さくできる)にすることで解決できても後側のエンジンの出力をプロペラに伝えるのが難しいらしい。

ユンカース「Jumo222E」のようにクランク軸1本で済ませてしまう方法もあるが、長いクランク軸は厄介な問題を起こすらしく、この「BMW803」ではクランク軸は別々にし、出力は奇抜な方式で前方に伝えている。後ろ側のクランク軸に取り付けた大歯車から円周上に取り付けた5個の小ギアに伝え、次にシャフトで前側エンジンのバンクの間を通り抜けて、二重反転プロペラを駆動したという。(シャフト7本と説明している本もあるが、博物館のパネルには5本となっていた) とにかくクランクケースの外側に設けたカバー(?)が大きくて、外からはシリンダヘッドしか見えない。(BMWのオートバイのエンジンも妙にでかいカバーがついており伝統的な設計手法かもしれない) ただし出力・重量比は1PS/kg程度(文献では1.3PS/kg)で結構重くなっており、エンジンを結合させることによるデメリットが出ていて、航空ピストンエンジンの限界に近づいたことを示している。しかし、BMW社はこの時期にはジェットエンジンの改良に追われていたはずで、化け物のようなエンジンを新規設計する余力があったことに驚かざるを得ない。余談であるが、数年前に航空雑誌の「BMW803」特集号を偶然読み、驚いたことを鮮明に覚えている。

  エンジンを結合させずに前後に1基づつ搭載した奇抜な戦闘機ドルニエ「Do335A」がドイツ博物館(分館)にあるはずなので尋ねてみたところ、「1989年からワシントンにある」とのことだった。その頃アメリカ出張の日曜日にスミソニアン航空宇宙博物館に行っているのだが見た覚えがない。誰が見ても気が付く珍しい構造だから展示されていれば記憶があると思う。

AJumo205型航空用ディーゼルエンジン

  なんでもありの航空エンジンのなかでも手品のような構造である。(ディーゼルそのものは珍しくない)聞いてみると、滑走路の向こう側の格納庫(?)にあり、日曜日だけ展示しているとのことであった。特別に見せて欲しいと交渉しようかと思ったがためらってしまった。何分にも英語会話力がないこと、その男は模型飛行機作りに熱中していて切り出しにくかったこと、さらには佐貫亦男先生のドイツ紀行の読み過ぎで、「融通が利かない国民性」というのを思い出し、切り出せなかったのであるが、今回の旅行で一番残念なことであった。構造は図で説明しないと無理なので図面(最後のページ)を付けておく。午後になると彼はUコン機を展示室の隅で観客を集めて飛ばしていた。

Bソ連製戦闘機

  東西ドイツ統一後の1992年頃に入手したという戦闘機が展示されている。「MIG−15,21,23」などがあり、ツマンスキーR29などのジェットエンジンも展示してあるが、ジェットエンジンは外観から特徴が見えないのでつまらない。ただし兵装類は実装状態なのでその方面がお好きな向きには喜ばれるだろう。(軍用機でも機関銃を外して展示している例が多い)

  この日の昼飯も博物館の中のカフェにて。隣の人がビールにレモンの小片を入れて飲んでいたので、「ビール、レモン」と言ったところ、レモン果汁を混ぜたビールを運んできた。こんなビールの飲み方があったっけ? 我慢しながら飲み、ジャガイモにチーズをのせてオーブンで焼いたやつと野菜サラダを食べた。

  ミュンヘン駅に向かう電車でみかけた美人は出勤する「お水」関係者らしく、毛皮のロングコートにミニスカート。ミュンヘンは寒さが厳しいのでみんな防寒ファッションで、若い女性でもスカートは珍しい。朝で−5℃くらいだから上田と同じで大したことはないが、曇り空で天気が悪く日中の気温が上がらない。

  今回の防寒作戦のポイントは靴で、良く考えて選んだ。靴底からくる冷えは我慢しにくいし、疲れにくい靴は旅を楽しくする作用がある。汗ばむ程暖房を強くする国では薄着の上に上等なコートを着るそうだが、ドイツの暖房は効き過ぎるということはないので着込みすぎた下着で汗をかき、外に出た途端に冷えて風邪をひくということはないだろう。 

  ミュンヘンでは住宅に煙突が見あたらないので公営の熱供給会社があるのかも知れない。因みにホテルの部屋にはエアコンがなくパネルヒータだけであったが、洗濯物を掛けやすくて丁度良かった。

  ホテルに帰る途中で工具なども扱っている金物屋に入った。ドイツ製の上等なモンキースパナを買おうと思っていたのである。大きいスパナは良い物だったが土産には無理で、小型のものは日本でよく見かける(そして我々が愛用している)安物と全く同じだったので拍子抜けしてしまった。上等なモンキースパナはノギスのような目盛りが付いているので、予め合わせておいてナットに掛けることができる。使っている工具の良し悪しはその国(会社)の技術レベルを反映していると思う。

  ドイツはホテルの部屋のゴミ入れも分別収集かと思っていたがその様なことはなかった。街の中でもゴミを出すボックス(ゴミステーション)の数が少ない。新聞も薄いし、ジャガイモも茹でてからむけばゴミは少ない。魚は食べられない部分が多いが、肉やソーセージはゴミが出ない。アルミ缶は使われていないのでガラス瓶の回収ボックスが多い。日本は大量生産、大量消費、大量ゴミの国であることを強く感じる。

2月2日(火曜日)

  今朝は台湾(高雄)からの家族連れの団体客が去ったのでレストランは静かであった。彼らは朝飯の後大きめの魔法瓶に各自お湯を汲んでゆく。ウーロン茶がないと生きて行けぬらしい。亜熱帯の国から雪の国に旅行するのは憧れか?彼らの防寒対策が軽装であったところをみるとバスで回る旅行らしい。3泊したホテルをチェックアウトする。

  ミュンヘン空港では白ソーセージで白ビール(小麦麦芽で醸したビール)を飲む。出発ロビーには地元の中学生らしき団体と引率の先生がいて、我が家の娘達(高1と中2)のことを思い出す。何人かは鼻にピアスをつけている。耳のピアスは当たり前。

  彼女達の賑やかな会話が聞こえてくるが、発音が軽やかなことに気がつく。学生の頃に少し習って、今では全部忘れてしまったドイツ語は「ダス、デル、デン」と重厚というか、重苦しくていかにも哲学向きの言葉だと思っていたが、実際には軽やかな発音なのであった。ついでに、ドイツには美人はいないものだと偏見を持っていたが、全般的に顔もスタイルも悪くなかった。アメリカにはドラム缶のような体格のご婦人がいるがドイツにはいない。

  シャルル・ド・ゴール空港から凱旋門まではリムジンバスで行く。渋滞しないので思ったより早い。ホテル(ROYAL ELYSEES)は凱旋門のすぐ近くにある。スーツケースのキャスターに犬の糞が付着しないよう特に注意しつつホテルを探し当て、無事チェックイン。ホテルは6階建てで部屋がやや狭く、当たり前のことであるが古い。手配を依頼した旅行代理店の担当者が四つ星クラスと言っていたが、二つ半程度ではなかろうか。街の真ん中なので悪くはない。今度も(いつになるか分からないが)ここにしようとは思う。

  早速、手始めに隣の凱旋門へ。地下道を通ってロータリーの中に行き、階段を登り(エレベータ故障)、上部の博物館に入る。絵を見て驚いたことにナポレオンの時代から町の様子が全く変わっていない。パリ中心部の建物は5階ないし8階で屋根は厚手のトタン板葺き(ホテルの部屋が最上階なので窓を開けて屋根の材質の確認。ただし波付きではない)で壁の色はごく薄い茶色。教会を除いて全部!

  凱旋門の高さ50mの展望台に立ち「ついに来たぞ」と心の中で叫ぶ。この展望台は視界を遮る物は何もない(ガラスもない)のでエッフェル塔よりも気分が良いくらいだ。それに放射状の道の中心にいるので風景が独特なのだ。足下からシャンゼリーゼ大通りがのびている。エッフェル塔、セーヌ河などもすぐ近くによく見えた。「ムーランルージュ」の赤い風車がモンマルトルの丘の麓あたりに見えるはずだが、と双眼鏡をホテルに置いてきたことを悔やむ。有料の双眼鏡はあったが小銭がなかった。

  夕飯は中華料理。炒飯と春巻き、ビールを注文する。客は僕一人で、近くにボーイが立っているものだからどうも落ち着かない。この店は旨くない。フランス料理の影響で化学調味料を減らしたか、それとも中華の料理法とパリの建築が合わないせいかも知れない。中華は強い火力で炒めることが多いので強力な換気扇が必要だが、あの煙突では細すぎて排気できないだろう。かといって窓に換気扇をつければ隣人が黙っていない。

2月3日(水曜日)

  今日は僕の誕生日(47歳)である。

  ホテルの朝食は簡単でカフェオーレとパン、オレンジジュースであった。カフェオーレはコーヒーと温めたミルクが小さなポットでサービスされ自分のカップで適当に混ぜる。このコーヒーだけを飲むとうまいのだが街のビストロで出すコーヒーは機械で出すやつで、フィルター(永久に使える金網らしい)の精度が低いらしくどうも粉っぽくていけない(ろ過圧力を下げれば精度が出るのだが)。

  テーブルがとにかく小さい。60cm角くらいのテーブルで二人が食べることになっている。

  市内観光にいざ出発。シャンゼリゼ大通りをコンコルド広場に向けて歩き出す。道はコンコルド広場に向かって少し下り坂なので歩いて楽。パリにまだ行ってない方のために解説すると、この大通りは毎年軍事パレードが行われる広い道路(片側4車線、石畳の上にアスファルト舗装、幅は125m)で両側は広々とした並木つき歩道。シャンゼリゼ大通りから凱旋門(ロータリーになっている)をぐるっと回ってグランダルメ大通りにゆく交通量はビックリするほど多く、ロータリーで事故が起きないのは不思議で、渋滞しないのも奇跡だと思う。途中からタクシーに乗り(パリでは後ろの座席に座る)ルーブル美術館に行く。

  美術方面は専門外の外なので余計なことは言わないが感想をいくつか。展示室が明るいこと、油絵はツヤツヤしていてホコリがないこと、写真は撮り放題(フラッシュと三脚は禁止)、ミロのビーナスの裾はみんなが触るので手垢がべったり。12時頃にルーブルを出て次はオルセー美術館である。オルセーの方がこじんまりとしているので見やすいと聞いていたがそれでも広い。見たいと思っていた作品を殆ど見ることができたのは幸いであった。しかし「民衆を導く自由の女神/ドラクロワ」はいくら探してもなかった。(彼女はオッパイ丸出しで日本へ出張中であった)

  ルーブルの作品を日本にもってきても会場が暗い。専門家が「貴重な絵が傷むからだ」とかいうがあれも信じがたい。あれはフランス政府観光局の策略である。本物をチラリと見せて欲求不満を起こさせ、「やっぱりパリに行かねばなるまい」という気にさせる、彼らは商売上手である。その証拠にルーブル美術館は明るく、国宝級以外は額にガラスバーも付けてない。ただし「モナリザ」はガラスケースに入って窮屈そうにしている。

  順路に沿って次はエッフェル塔。一番高い展望台(276m、59F)に上る。110年前(明治21年頃?)に作った塔なので心配であった。何が心配かというと第二層(日本式の数え方では3階)までのエレベータは斜めに引き上げるタイプで、塔の脚の曲線に沿ってゴンドラの床が徐々に傾くのではないかという心配である。ゴンドラは二階建てで水平を保つ特殊な台車に載っていた。

  ひたすら歩き続け足が痛くなったので定番のセーヌ河クルーズ。船の観光説明は5カ国語で、日本語は最後なのでタイミングが遅れるが内容は簡単で観光地図以上のことは言わない。なお船は折り返して戻るので片道切符はない。ただし夏場は水上バスが運行されるので大きな観光船より良いかも知れない。またセーヌ河の水は茶色に濁っていて、ノートルダム寺院からエッフェル塔の方向に流れている。お節介だが、船の座席は左端を確保するのが良さそうである。ガラス天井の船は鳩の糞だらけであった。

2月4日(木曜日)

  地下鉄で北駅に行き、フランス版新幹線「TGV」を見る。10両編成の両端が電気機関車である。機関車は4軸で、2両目は変則であるが3両目以降の車輪は連結部にあり、そのために連結部の床は少し高い。近距離でもよいから乗ってみたかったが本数が少ない(?)ので帰ってこれなくなる。(駅に到着したTGVはいつまでたっても発車しなかったので本数は少ないと思った)

  以下は余談。日本がリニアモータカーという時代遅れの鉄道システムに金を注ぎ込んでいるうちに、フランスは全くシンプルでコストの安い構成で500km/h以上の速度記録を達成している。リニアモーターカーは実用化される見込みのない鉄道技術であり、見放されたが故に日本が世界のトップを走る、いわば独走状態になっていることに注意が必要。 『金丸爺さんも死んだし、リニアに金をかけるのはすぐにやめてくれ!青函トンネル以上のムダだ。それより「あさま」を12両編成にしてほしい』

  さて今日の目的地はパリ北郊の航空宇宙博物館である。北駅から電車に乗るとアコーディオン弾きがいたので僕もコインを投げる。向かい側の席にいた日本人ビジネスマンは知らんぷりであった。ル・ブルージュ駅で下車し、さらにバスで西に向かって10分程行く。博物館に入ってみるとエントランスホールには1910年頃の飛行機と熱気球の模型が展示されている。1903年にアメリカの片田舎でエンジン付き飛行に成功した後、飛行機はフランスで開花した。アメリカではライト兄弟が特許を取り(旋回するときに機体を傾けるという原理に特許権を与えてしまったのでアメリカ特許局の重大な過失とされている)真似をすると訴えられるので意外なことに全く発展しなかった。フランスでは、「その特許とやらは原理だから無効ですよ、鳥だって旋回するときは内側に傾けるではありませんか」と相手にせず、メカニズムもちゃっかり失敬して発達していった。

  再び余談。その後のライト兄弟は特許係争で疲れてしまったし、一つのエンジンからチェーンを使って二つのプロペラを左右逆回りに回す(回転モーメントをうち消すため)といういかにも自転車屋らしい方式もエンジンの出力が大きくなると通用しなくなった。技術的なこだわり(信念)と洞察力のバランスが取れていないから失敗した、と非難するのはたやすいがパイオニアが陥りやすい失敗である。

  隣の棟にはコンコルドの実機(プロトタイプ)が展示してあった。超音速旅客機はすごい迫力で、機体は細くてとにかく長い。着陸装置(車輪の脚)が異様に長く、機体表面はツルツル滑らかである。機内に入ってみると客室は中央の通路をはさんで2席づつ並んでいるが、ちょっと狭苦しい。コンコルドはデルタ翼機だから離着陸時には大きな迎角をとる(スペースシャトルの着陸シーンを思い出してほしい)。操縦席から滑走路が見えないとやはり困るので、長い機首だけを折り曲げる構造だが、機内から見るとどこから折り曲げるのか分からなかった。コンコルドはパリの空港で見かけたが運行コスト、騒音、オゾン層の破壊などの問題があって主流にはなれず、世界の空は30年も前に設計されたボーイング747が支配している。

  驚いたことにジェット戦闘機の機体を透明なプラスチックで実物大に作り、主要な装置、エンジンの実物をはめ込んだ展示があった。理解しやすい展示はドイツのお家芸だがフランスも負けてはいない。屋外にはアリアンロケットがあるが、正直いってロケットの巨大なやつは見てもしょうがない。

  昼飯は駅前のビストロで食べた。ムニュ(メニュー)を睨み付けるとHerringという単語があった。「FISH?」と聞くと「ポワッソン/魚」(唯一聞き取れた単語)というので注文してみると正解!ニシンの酢油漬けが出てきた。パンにも酢油を付けて食べながらビールを飲む。他の客もワインではなくビールを飲んでいてちょっと意外であった。郊外のビストロは安いが、市内のビストロは例えばエッフェル塔などが見える店は高く、カウンターではなく席に座ると高くなり、道路にはみ出している席はもっと高いらしい。ロンドンのパブは現金引き替えだが、パリは後払い。お釣りはプラスチックの小皿にのせて持ってくるので少し残してチップにする。「メルシッ」と尻上がりのお礼の声。

  ステンドグラスが有名なセントシャペルに行ったが、出口のすぐ脇の入り口を見落としてしまったために別棟の神学校の教室や図書館をウロウロしてしまった。どうも変だなと思って尋ねても、質問の意図がつかめないらしく妙な返事であった。あきらめて帰ろうとしたらそこに礼拝堂の入り口があり、ステンドグラスは勿論素晴らしいものであった。

  モンマルトルの丘にあるサルバドール・ダリの美術館に行く。「時の威厳」は木の枝(金属製)に時計がグニャリとぶら下がっている作品である。その時計は座布団半分くらいの大きさで板金細工(銅板製)であった。時計柄のネクタイ(290FF)を買う。

  ホテルから電話で「クレージホースサルーン」の予約を入れる。「良いお席になさいますか?」というので聞き直すと面倒になったらしく「8時においで下さい」と。珍しく英語名の店(創立45周年記念の特別ショー開催中)は高級ブティックが建ち並ぶジョルジュサンク通りに面している。ちなみにインターネットのURLはhttp://www.crazy-horse.frで、アクセスすると少し楽しめる。野暮を承知で説明すると、あの模様は衣装ではなく、裸体に映写機で投影したものである。

  店に入ると何か言われたので「パードン?」と聞き返すと、力強くコート(実は登山用のマウンテンパーカーであるが)を脱がされて、預かりの紙切れを渡され、入場料をいつ払うのかと思っているうちに上品な紳士に「ムシュー、こちらでございます」と上等な席(前から3列目で中央)に慇懃に案内され、次に「ムシュー、お飲物は何になさいますか?」でビールを頼む。1本目のハイネケンビールが運ばれてきた後に請求書を持って来たので、カードで560FFを払った。(約12000円、飲み物込み。オーケストラという席らしい) 隣が日本人二人組なので久しぶりに日本語で話す。一人でミュンヘンから回ってきたというと感心された。「英語が全然できないけど……」と行った瞬間であったが。

  ショーは12人の粒ぞろいの美女が、素っ裸の軍服姿で(決して矛盾はしていない、描写しきれないだけである)登場して始まった。内容の描写は控えさせていただくが、生唾ゴックンで喉が異常に乾き、飲み物が必要になった頃、2本目のビールが配達された。しかし飲みすぎてトイレに行くようなことにならぬよう注意すべきである。一瞬たりとも見逃してはならぬ。なお温泉場のストリップ小屋ではないので服装には注意。女性(ただし中年以上)の客も多い。

2月5日(金曜日)

  パリには犬の糞が多い。しかし汚れたままではなく、歩道の洗浄(箒で掃くのではない)は専用の小型自動車(水を噴射するから朝の歩道は濡れている)で毎朝暗いうちに行われていた。車道の脇には専用の蛇口と下水道につながる孔があって水で洗ったり、ゴミを片づけている。(ゴミは地面に捨て放題であるがポケットティッシュやチラシをやたらに配ったりしないのでゴミは少ない。ビストロにも灰皿はないので床に捨てている)

早めにホテルを出て、今度はリヨン駅に行き「TGV」を再びよく観察した。路線が違うとデザインが少し違う。

  国立技術博物館にも行った。門番に「キュニョー?(の蒸気自動車)」と尋ねると「箱に入っている」という。つまり改装のため閉館中であった。蒸気機関を動力にした自動車の元祖(砲車)はここにある。

  マルモッタン美術館は印象派の元祖、モネの美術館で「印象・日の出」、「ルーアン大聖堂」と例によって「睡蓮」がある。真ん中にソファが置いてあり、足を休めながら見ることができた。

  パッシイ市場付近でビストロに入った。カキとウニが店の表に並んでいるので「オイスター」と注文したらウニが出てきた。仏語のウニ(魚介類の卵という単語だったかも知れない)は英語のカキの発音にチョイ似だった。この近くは庶民的な店が多く、ナツメヤシ(date)の乾果を見つけたのでお土産用に沢山買い込む。肉屋には兎の肉(内臓を抜いた後肝臓だけ残すのはソースに使うためか?)や野鳥の肉があったし、チーズ売り場の様子も面白い。クレープ屋台とかマクドナルドもあった。

  地下鉄で驚くことは改札出口のステンレス製の扉である。天井まで届く高さであった。無賃乗車対策らしい。容赦ない対策をするのが自由の国フランスのもう一つの顔である。地下鉄でもうひとつ驚くのは鉄の車輪とゴムのタイヤを両方付けた車両があることだ。勿論、タイヤが外側でタイヤ用の平らな軌道も線路より低く、平行して敷かれているが、一体何のためだ?転轍機はどうなっているか謎であった。

  道を渡る時に信号に従わない人が多いが、自動車の方も歩行者優先とは思っていないらしく、横断歩道の人の切れ間を容赦なく突っ切って行く。ハンドルの右左以上に交通の文化が違うのは、車社会の前に馬車による交通を経験しているせいかも知れない。馬車は速度の割りにブレーキが貧弱で急ブレーキは効かないし、街は馬糞だらけになる。道は清掃しないと不衛生で、ついでに人間の糞も一緒に片づけてもらおうというので瓶に入れておき毎朝道に捨てていたという。なおハイヒールは馬糞だらけの道を歩くために作られたという説もあるが冗談であろう。明治の頃日本にきた欧米人は江戸の街が清潔で驚いたというが当然である。日本は大八車で馬は少ない。

2月6日(土曜日)

  フランが不足したので近くの銀行に行きカードで700F程キャッシングした。空港までリムジンバスで行きチェックイン。免税店でカミさんの土産物を買ったり、フォワグラの瓶詰めを買ってから、カフェテリアでビールを飲もうとしたら店員が何か聞いてきたので、適当に「YES」と答えたら500ccのグラスが2杯出てきてフランが足りなくなってしまった。慌ててカードで払い、勿論2杯飲み干した。

2月7日(日曜日)

 成田着9:30。土産と洗濯物を宅配便で自宅に送りつけてから羽田まで移動して福岡行きのANAに乗り、出張先に直行。数日後九州から帰宅。                        おしまい                                                               

あとがき

英会話もろくろくできないのに一人で海外に行くのは無謀ですが、何とか無事に帰国してみると妙な自信がつくものです。「英語ができなくてもカードとビールさえあればなんとかなる」と。           

久々の禁煙

 久々に禁煙を始めました。15年ぶり3回目でしょうか。今回が一番長く続いています。何で禁煙始めたとか、いつまで続ける(続く)のかよく聞かれます。最初の質問に対してはジャパンマスターズ水泳で3位以内の入賞を目指すためと答えています。2番目の質問に対しては次に吸うまでと答えています。

 タバコとアルコールは国で公認され財政にも大変貢献している麻薬物質です。タバコの方が少し性格が悪い様です。最近は毛嫌いする人も多くそれに反発して吸い続けている人も多いです。麻薬ですから始めると簡単にはやめられません。一旦禁煙してもニコチンに対応した体ができあがっていますので、何年たっても一服すればすぐ中毒患者に戻ります。そして欲しいものを一生我慢するのが禁煙ということです。ほしさの程度は月日と共に減ってはいきますがなくなりはしません。害も数多くありますがすぐにはその害が現れないようになっています。そして多少の害があってもよい/何年か寿命が短くなってもよい/どうせいつか死ぬのだからといった理由付けにより吸い続けることになります、従って禁煙を始めたり続けるには強い有効なモチベーション(動機付け)と意志が必要です。タバコの禁断症状(離脱症状)は人によって色々とちがいがあるみたいですが、体としてはっきり症状が出ます。手足のしびれ感覚/関節の痛み/頭痛等で長くて2週間以上続きます。精神的にはイライラや怒りやすくなり、吸いたいいという渇望が続きます。禁煙して一ヶ月くらいすると吸いたいという欲求はかなり薄れ、そして色々な良い影響が現れ始めます。元々吸っていない人には得られない効果です。

@喘息傾向で強い運動した日の夜に出ていた咳の発作が無くなった。痰も出なくなった。

A40歳あたりから出ていた冬山での手の血行障害が無くなった。

B鼻毛の伸び方がかなり遅くなった。

C痔の症状が改善した。私は今のところ関係ありませんが歯茎の黒ずみ/歯槽膿漏も良くなるとのことです。

D山登り/水泳で呼吸が楽になった。また安静時脈拍が1割減少した。

E味覚が変化した。水や白米に味を感じる感覚。美味しくなったというほどではありません。尚、食事は増やしていませんので体重は変化なしです。

F二日酔いが軽くなった。飲んだ次の日にあった軽い下痢症状が無くなった。朝の歯磨きの吐き気が無くなった。

G月二万円以上の剰余資金ができた。

H海外への飛行機や禁煙場所での打ち合わせでタバコを我慢する必要が無くなった。

I山にタバコを持っていく手間が省けた。胸ポケットの無いシャツが気にせず着られる。

 タバコが悪いとわかっていても、タバコの経済効果は大変なものです。今タバコを禁止したら経済は恐慌レベルになると考えられます。直接の売り上げだけで3兆円以上あり、タバコ農家/JT職員/政府/地方職員はそれで養われていますし旧国鉄の年金まで負担しています。タバコで病気になった人たちは病院を潤し医師看護婦とその家族を養っています。国とすれば毒でもタバコをやめるわけにはいかないのです。ある意味では国全体がニコチン中毒なのかもしれません。いくら禁煙運動をしてみた所で国として禁止措置をとらない限り喫煙率は下がらないでしょう。禁止しても他の麻薬と同様なくなりはしませんが、率は2桁位はさがるでしょう。

 タバコの場合は喫煙者と非喫煙者の間に深い民族対立が存在しています。喫煙者は基本的に薬物中毒患者(精神の病)ですから何を言っても無駄ですしマナーも存在しません。またそれを特別に毛嫌いする嫌煙者が存在し攻撃を行っています。嫌煙者は相手が精神の病であることを理解している人はあまりいませんから、単純に毛嫌い/排除しようとします。精神の病とわかっても単に気ちがい扱いでしょうか。

タバコの害については皆さん知っているようで知らない人も多いので、ここに整理しておきます。タバコの煙は主にアンモニア、ニコチン、タール、微細粉塵、一酸化炭素他で構成されており、化学物質の種類としては4千種類以上、その中で有害性確認がされているものが270種類以上あります。量として多いのがアンモニアでこれが目にしみる原因の主体です。虫刺されの薬ですが粘膜にはつけてはいけない薬です。これをのどと肺の粘膜に送り込んでいるわけです。ニコチンは劇薬に指定されている薬物で通常タバコ以外の形では入手できません。タールは有機物が燃える際に必ず出る茶色の物質で発癌性が確認されています。微細粉塵はじん肺の原因になります。一酸化炭素は酸素の200倍以上の結合力でヘモグロビンと結びつき一定割合の赤血球を無効にします。多ければ中毒死となります。一度結びついた一酸化炭素は赤血球が死ぬまで離れません。タバコで起きるとされている病気は肺癌を代表とする各種癌、気管支炎/肺気腫、動脈硬化からの心筋梗塞/脳梗塞、高血圧からの脳溢血等殆どの成人病を引き起こすとされています。1日タバコ3箱で90歳過ぎまで生きた人もいますが、この人は遺伝的に特別強い人で、そうはいません。この人がタバコを吸っていなければ120歳まで生きたかもしれません。禁煙1年から2年で血管系の病気の発生率は吸わない人とほぼ同じに、禁煙10年で発癌率は吸わない人並みになると言われています。

 いつまで続くかわかりませんが、とりあえず禁煙を続けています。太ってもきませんし体調も良くなり体力もアップしていると感じますが、吸いたい気持ちが無くなったわけではありません。楽しみを奪われた、あるいは好きな恋人と別れたといった気持ちがずっと続くのでしょう。

M.W.

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